アイパオの話(その9)

4月4日の記録です。東北震災救援で小生意気なミキに遅れをとって気が焦っておりました。アイパオが形にならず未だ救援トラックは出発できません。ここ福岡のホームセンターでさえ復興資材機具の類いが姿を消してアイパオのセッティングに難儀しているのです。

そんなモヤモヤの中、このところの花冷えが凍えた今冬を思い出させます。桜は五分咲き。そして直に爛漫の春がやって来るのです。

そんな時節にあの男北川安洋が逝ってしまいました。4月2日に亡くなり4日はお通夜です。79歳でした。春の宵のこぶしの花の手招きに誘われて旅立ってしまったのです。この世からまた一人いい男がいなくなりました。

一代で世界的な疑似餌(ルアー)メーカー・ヨーヅリを立ち上げた北川安洋には老弱男女を問わず彼を知る人は皆ファンになります。会社が不振で解雇になった連中さえも彼を慕いました。特に女性、中でも水商売の人なら一目で惚れ込んでしまいます。風貌は<7人の侍>の志村喬を彷彿とさせ若い時、空手や陸上競技で鍛えた逞しい身体に大きな口と人懐っこいギョロ目、魚ならアラの大物です。

「男がいい男を論ずるのはお止め。それは女の仕事よ、そして私のね」とは向田邦子の言葉でした。だが中洲もいい男を論じたいです。無骨で笑いが爽やかで口数少なく日本酒をいっ時も手放せない男です。

それでいて突然「士郎さんよ、わしは最近好きなおなごとでも続けて2度はやれなくなった。衰えたもんだ」と呟いたりするのです。一瞬周りに身内が居ないかと心配しました。まるで小学生が小便を遠く飛ばせるのを自慢するような調子でした。あっけらかんとした色恋なんでしょうね。多分彼を惚れた沢山の女性達は「焼きもち」とか「恨み節」など抱かないのでしょう。ほんのひと時でも一緒に居てくれさすればいいと。

あの開高健にして西に男あり北川安洋と言わしめました。かの越国の美女西施のひそみに倣い彼の飲み方を真似するも中洲では到底様になりません。それでもあんな雰囲気の男になりたいものです。

亡くなって2年が過ぎて生きておられれば80歳の誕生日の2013年暮に登美子夫人から冊子が送られてきました。題は「洋々と行く」。安洋の半生が綴られております。彼を愛して止まなかった人たちが思い出を書き残しました。中洲のようにブログを書かなかった北川安洋の茫洋たる人生を語り継いで貰いたいもの。そんな冊子があること知っておいて下さい。そのうち機会があって登美子夫人の許しが出たらこのブログに冊子のPDFを貼り付けますね。

不思議ですねえ。色んな人物と母親の中洲若子とに接点が生じます。

「佐賀の武雄にいいお客様がいてそれはいい男。奥様も小粋な綺麗な人でねえ」中洲若子の夢を壊しちゃいかんので「その人はワシの友達だ」とは言わずにいますと「あ~あ。ひと時でいいからあんな男の妻として世話焼きたかったなあ」己の不憫をいたわるような口調でした。

然し商品開発だけは簡単には彼に勝ちを譲れません。彼は物作りにこだわりました。そしてモノとは矢張り実際に存在するものから派生しております。中洲士郎はこれからずっと皆さんと蛍の夢に誘われて珍奇な発見と妄想に溺れて参ります。但しそれは未だ誰も見たことがない代物なのです。既にあるものはいくら手を加えても商売になりません。それが中洲の持論です。商品開発も北川安洋と違うやり方をしましょう。女性にモテるのは諦めて。

アイパオの話(その8)

今読み直すとミキさんの国語力は中洲より格段に優っております。論理もしっかりしておりバー・コルで一緒に飲んでる時でも中洲の失言を絶対許しません。だから震災支援活動を論じるのは余程注意しないといけないのです。

そもそも支援活動について彼女とは根本的に考え方に相違がありました。まあ彼女は現地を見てないので衣類や食品を届けるのが一番だと思うのは仕方ない事です。メールでその事を正直に述べております。

じゃあどうやって問題を解くかになると中洲の奇跡のアイデアにイチャモン付けるだけのヒス女(性)ですね。一般的に女性は問題を解くことに男ほどには興味を持たないようです。

被災者には個人のプライバシーが守られる清潔な住まいを災害発生後数時間で届けること。それが文明国の為政者の義務なのだという事を久ノ浜中学体育館での避難民生活から確信しました。

メルトダウンの被害者である沢山の夫婦がダンボールの間仕切りで生活させられておりました。衆目は被害者達のセックスを破廉恥にも公然と奪っているのです。ついでに日本国民を何と礼儀正しく従順なのだろうと自慢しておりました。

こんな事態にこそ三島由紀夫が登場して檄文を差し出して欲しい。そう思ってネット見ると怖いですねえ。滅多なことは言えませんよ。政治もメディアも皆そうです。

然し思い出すのはあの久ノ浜中学での先生や生徒の献身的な立ち振る舞いです。彼らのように危機に際して「今こそ責任を果たそう」との心が持てれば未だ日本には救いがあると思います。

繰り返しますが瓦礫の前で「建築確認申請をすること、させること」が優先されるバカバカしさです。そして一棟300万円の仮設住宅を立てるのに半年、それもルールで一定期間の使用後数百万円かけて取り壊しです。あの合理的なドイツでさえ難民受け入れに同じことをやってます。全て税金の無駄遣いでしかも被災者や難民の神経を逆撫でするだけの上目線でね。

結局大震災の後中洲は半年間走り回っての渾身のアイパオ普及作業でしたが遂に一人の賢者にも出会わず無為に終わったわけです。次に起こった熊本震災で も状況は全く同じでした。皆異口同音に日本は「東日本大震災からは何も教訓が得られてない」と。

じゃあどうすればいいのか思案しました。何事にも不可能はありません。方法を見つければいいのです。無ければ作り出せばいい。

ホームレスを顧客とする「営利事業」を始めるのです。発想を変えれば事業は幾らでも広がることを唯一自慢の後輩の孫正義がそれを世界に実証しています。だが彼が震災直後投じた私財100億円の義援金は一体どこに消えてしまったのでしょう。他に問題解決策が天才孫正義に思い浮かばなかったのでしょうか。もはや「義援金」で問題は一つも解決しないこと、「真のビジネス」にこそ貧困問題を含む諸問題解決の鍵があると断じるべきだと思うのです。

お金の無い数千万もの人々にお金を貸す事業が成功しているのです。考えりゃこれこそ真っ当な銀行業であった筈です。だったら家が無い人にこそ家を売るべき。それが出来れば金持ちの被災者に1日1ドルで家を貸すなど造作もないことでしょう。

巧妙な規則を作ってそれを守らせることを天職と心得るのじゃなく「時代に合わない規制は急いで撤廃しよう。だが現行のルールは守らなきゃいかん。だから一緒にうまい解決策を見つけよう」それが優れた「公僕」でしょう。「DiDi」や「UBER」を白タク呼ばわりする行政に孫正義が遂に噛み付きました。彼のことです。きっと「約10平方米で災害発生から数時間で建ち上がる住まい」開発をビジネスとして捉えるでしょう。

これから何が起こるか読者の皆さんと一緒に期待しましょう。

子供達のためのバス停です。

アイパオの話(その7)

最近はウイスキーにはまっております。一年前知り合った「タリスカー」から今度は「オーヘントッシャン」です。いずれもスコッチのシングルモルトです。量が過ぎるとやっぱり朝お腹が重く感じます。

そういう時はいつかもお話ししましたが韓国家庭料理でスープに飯の入ったククパップが一番です。中でも棒鱈(たら)のブゴククが最高。スーパーで開いた鱈の塩漬け乾燥品を買って先ずオーブンでこんがり焼き塩抜きしてほぐしスープを作ります。これに大根の短冊、薄揚げとトーフを入れて煮込みます。焼きあごと同じく冷水に一晩浸けて味を出すのがいいのかもしれません。たぎったら少し硬めのご飯を入れて出来上がり。中洲の家族はみんな一様に不味いと不評だから由布農園で一人で作って食べます。

由布院農園には結構見知らぬ来客が多いのです。農園の前の農業水路の土手を歩きながら「何をなさってなますか?」の声には大抵「遊んでます」と答えますと「へえ遊んでいるのですか?」と怪訝そうです。

10年ほど前の年の暮そうやって「お邪魔してもいいですか」に「はいどうぞ」と、この時は男女のふたり連れを招いたのです。6角形の小屋「SOHO1号」なんか覗いて「まあ。アートですね」なんてキザなこと言ってます。

お昼ですから例のスープ飯が余るので勧めると大層気持ちよく「美味い美味い」の連発。こちらも気分良くなりました。忙しいので早めにお引き取りいただきました。

翌年の正月会社に礼状が届きました。農園入り口のルミカの表札見てでしょう。内容は「ルミカ社長様。御社の由布院の農園に突然お邪魔しましたが大層親切な管理人さんに昼食をご馳走になりありがとうございました。どうぞあの管理人さんを大切にしてください」と。

「中洲はやっぱり見かけ悪いんだな・・・」

トンマな差し出し人は東京の木場フィットネス佐々山ミキとありました。木場なら東京支店からも近いし半年ほどして面白半分に訪問し東京出張時にはそのワンコインフィットネスに通うようになりました。

会社の常務もここに通ってミキさんのアドバイスをまじめに受けて物の見事に体質を改善したのです。

フィットネスコンビニ店経営のかたわら老人相手のソーシャルワークに精を出すそのミキさんですから東北震災救援にはじっとしておれません。

その彼女3月28日の夜青森の八戸に向かって借りたワンボックスを勇躍飛ばして行ったまま消息がありません。大丈夫だろうか。

4月1日ミキさんから次のメールが入りました。

連絡遅くなりました。

皆様からお預かりした物資を届けて、昨夜2時ころ無事石巻より戻りました。心配してくれるメールもたくさん頂いていたにも関わらず、連絡が遅くなり申し訳ありませんでした。

肉体的・精神的な疲労もさることながら、私が現地で感じたこと・体験したことをまだうまく言葉にまとめられずいるうちにこんな時間になってしまいました。

まず何よりも先に、今回ご協力・ご支援頂いた皆様にお礼の言葉を述べさせて頂きたいと思います。本当にありがとうございました。私個人の力では決して成し得なかったことです。

それから、バタバタしていてせっかく頂いたメールにマメに返信できなくてすいませんでした。

今回私たちは29・30日と2日かけて石巻と女川、牡鹿半島の一部を回りました。

連日テレビやネットを通じて被災地の状況を目にしていましたが、実際にこの目で見た現地の状況は想像を遥かに上回るものでした。

この2日間で私はたくさんの人に出会い、たくさんの絶望と悲しみと、そのさらに奥にある人間の強さと優しさと生への欲望を目の当たりにしました。

その場に行かなければ、その人たちと触れ合わなければ知り得なかった事が本当にたくさんありました。肉体も精神もこんなに削った経験を生まれて初めてしました。

そして今回皆様の協力を得てそれらを知る機会を与えて頂いたこと、本当に感謝しています。

また今回ご協力頂いた皆様に私の経験したものをシェアするとともに、今回の活動のご報告を兼ねて、現地で私が得たことをまとめて近日中に公開したいと思っています。ちょっと時間がかかるかもしれませんがお待ちください。

街が、そこに暮らす人たちが元の日常を取り戻すには途方もない長い時間が必要になると思います。

これらを公開することが今後の息の長い支援に結びついてくれることを切に願っています。

2011年3月31日

本当にありがとうございました!

アイパオの話(その6)

3月14日から出社です。何かバツが悪くて皆んなと会話になりません。大揺れに揺れた東京と違って福岡の連中に地震のすごさを理解しろと言う方が無理です。社内でおおっぴらに犠牲者を悲しむわけにも参りません。今度の24号台風だって「ああ自分の所から逸れた」ただそれだけです。天災なんてものは。

然し実際に大災害の現場を見た者にとってはじっとして居れないのです。早速あのへそ曲がりのイノウエ君に頼んでアイパオ のイメージを描いてもらいました。

イノウエ君が中洲の頼みを明らかに鼻で笑いながらサッサと絵にしてくれました。さあ大急ぎでアイパオの開発です。

それでは皆様にアイパオのいわく因縁を聞いて頂きましょう。iPadでアルバムを開くと先ず大分県は湯布院塚原の不良資産2000坪です。

1998年  取引先の建設会社から高値で摑まされました。それも川底の上一面を茅が覆うひどい荒地です。

1999年から会社の仲間を誘って(強制して)開発開始。オーノ君が中洲の土木建築の師匠になりました。

2005年強風に耐えるか12角形のビニールハウスを作ってみました。何とも不細工です。

2008年改良した屋根構造が特許になります。

2011年震災後大急ぎで準備。12枚のソーラーパネル設置。だがドアを忘れておりました。

ご覧のように福島のK化学買収同様ここでも中洲の無駄遣いからコトが始まっております。だからこの荒地と20年間格闘しているわけです。「週末農業羨ましいですね」と人は仰います。確かに楽しいですが農業とは時間との戦いで相棒の新澤さんは黒板にTODOLIST書いては消しこむ毎日です。草刈りも終わる時には出発点の草があざ笑うように伸びております。アスキーの鶏も越境して畝を作る端から足で壊します。新澤さんはキャベツに卵を産み付ける可愛い蝶々を本気で追い回さなきゃいけません。2000坪はなかなか大変な広さです。

そして又ここは色んな開発の拠点であり人との出会いの場所でもあります。

由布岳の西端からのオロシは強烈で折角建てた最初の5棟の高床式小屋「オヤジ1号」は台風19号で壊滅。この経験から6角形の小屋「SOHO1号」開発で勝利しました。

素人の悲しさ。5棟全部吹っ飛びました。

6角形だと基礎なしでも20年健在です。

強風のためにここ塚原地区にはビニールハウスは一棟もありません。そこでモンゴルのパオに倣って12角形のビニールハウスを開発し生ゴミ発酵菌を研究してRMC35菌を量産、壁構造から棚構造にすれば躯体が強靭になることを見つけてニワトリ小屋に応用しました。これが被災地救援用簡易組み立てテントハウスへ発展したわけです。

中洲はこれを動機不明の芋づる式開発と定義しております。人との出会いも又不思議に商品開発と絡まってくるのです。

アイパオの話(その5)

大地震から2晩経った3月13日の朝、前夜のコンビニの前でタクシーを拾い王子まで走って列車に乗り羽田空港から何事もなかったように自宅に戻りました。     丸2日東北で音信不通でしたが幸いと言うべきか誰も彼も中洲は無事だと確信していました。変なところで信用が厚いのです。

さてそもそも何で中洲はあの時第2原発くんだりまで出掛けたのでしょう。大層な出来事も元を辿れば他愛ない事からが多いものですね。然し他愛ないことから事件が起こりそして未来に大きく作用することが有るのです。笑わないで下さいね。事の次第はこうなんです。

先ず2010年12月20日東京は神田に本社がある化学会社を訪れました。この会社はゼラチンが得意でS化学に特殊消臭剤を納めて一世風靡しましたが茨城に大きな工場を作ってから業績が悪化、IPOを断念した投資会社から売却される憂き目に遭っておりました。

中洲は茨城に物流拠点でもこさえようかと軽い気持ちで訪問したのですが既に売却先は決まっておりました。それが受付でねえ。女子社員のM嬢が愛想が良くて目と目でチカチカやりました。

中洲得意のイカサマでひょんな具合に売却先がルミカに逆転してさあ大変、3億円の買い物ですよ。後にも引けず会社の役員達をなだめすかして契約、3月11日午前神田の本社で調印式やって折角だからと言うので福島工場に挨拶訪問となったのです。富岡駅から迎えの車で第2原発エネルギー館の前を通り過ぎるとき少し胸騒ぎを覚えました。

そして5年後放射能汚染でクローズされたその福島工場を再訪しました。工場事務室の黒板には「3月11日午前11時中洲ご来社予定」と記され柱時計は2時46分を指して止まっております。床には書類が散らかりコピー機などが倒れており中洲が事務所を訪問したそのままが記念館のように残されておりました。

序でにお話ししておきましょう。第一原発のメルトダウンで富岡町は立ち入り禁止となりここの工場を所有したルミカには毎年大きな額の補償金が支払われました。若しもK化学を買収しなければ2012年からの経常赤字は避けられず若しも契約が3月11日でなければ地震に遭遇する事もなくそして何よりも「アイパオ」は生まれなかったでしょう。アイパオはまさに数奇な運命の産物なのです。但しこれがケミホタルみたいな天才児であればの話ですが。

帰宅して夜テレビでは東電の第一原発事故で大騒ぎです。現場から生還した中洲の目には醜い世界に映りました。もしも自分が東電の社長だったらここでは出来ることは一つしか残っていないと思いました。

津波で亡くなった15000人もの方達は自分の死に方を選べなかったのです。

一日も早く東北へ戻らなきゃと気が焦ります。

2ヶ月後の被災地

 

アイパオの話(その4)

3月12日の朝が来ました。天空からは何事もなかったように穏やかな日差しが降り注ぎ、景色の中には露ほどにも人々の嘆きをいたわるようなモノは見当たりません。

唯、時折地底の傷を癒すような余震です。ここはジタバタしても始まらん、あの一晩中燃え盛った久之浜漁港をこの目で確かめに行こうかと迷いましたが「物見高い奴だ」と軽蔑されるかも知れん、それに「又地震と津波がやって来るんじゃないか」と少々怖気付いて取り敢えず久之浜から東京を目指すことにしました。

勿論一睡も出来ず疲れ果て腹も空いておりました。国道6号線は壊滅との情報で245号線をてくてく2時間ほど歩き35号線に出会うところでご婦人運転の車に拾われます。お寺の井戸水を貰いに行くところだと。どこも水道は止まりコンビニも開いていないので飲料水に困っている由。途中のガソリンスタンドは車が長い列を作りおまけに給油は10リッターに制限。これこそ行政の怠慢で腹が立ちました。結局3台の親切な車を乗り継いで打ち壊れた常磐線のいわき駅にたどり着きここでタクシーを拾いました。

そのまま東京を目指せばいいのに宿を探すことにしたのです。変な気分ですね。このまま東北を見捨てて平和な福岡に戻るのが何となく悪いような惜しいような・・。本当に馬鹿だな中洲士郎は。

運転手は40歳くらいの姉さんで「その時あんたはどうしていたのか?」当然の質問です。「私はねえお客さん、非番でパチンコしてた。地震で揺れた時パチンコが物凄いフィーバーモードに入ってね。もうやめられやしない。天井から板切れが降って来るわ床上はパチンコ玉が溢れるわ。スピーカーは、表に出ろとがなりたてるわ。しかしこのフィーバー、終わるまでやめられん。とうとう打ち終わって最後の客になったよ。興奮したね」だって。その気持ち分からないでもない。中洲士郎、自分もそうするかも知れんと答えました。そしてふと地震の極限の中でのパチンコのフィーバーモードと絡み合う男女の姿が重なったのです。

タクシーで探しても探しても営業しているホテルなんか一軒もない。その姉さん運転手、パチンコの話で面白くなってか「どう?うちに来て泊まるか?」親切な話だが座席でブラウズしていたら丁度磐城温泉健康センターがヒットしたのです。電話の向こうで何となくだが泊まれる部屋があるような口ぶりでした。

当の健康センターでは電気も灯いておらず薄暗い玄関口で被災者の為に炊き出しが準備されています。久しぶりの食事だった上にご飯とおかずにはトンカツもあって本当に美味い調理と優しい作法に感動しました。

ふと、傍の女将さんに目をやると又これが言いようのない美しさ、東北美人とはこんな人を指すのでしょうか。「実は当センターは公共設備のためにひどく壊れた今、宿泊に供することは出来ません。ついては自分が経営する宿が裏手にあります。よかったら見られた上でお泊り下さい」と。

それでその女将に案内されたのが林の中に立ち並ぶ小さな小屋・・若しかしたらラブホテル!?そうでした。もう暮れに近く薄暗い6畳ほどの部屋。風呂場を覗くと当然お湯はない。タイル張りの四角い湯船、床には何と奇妙なエアーマット。ご丁寧に「ゆっくりお楽しみください」との貼り紙まで。気がつくとラブ小屋の入り口に密やかな香りを漂わせた女将の立ち姿がぼんやりと浮かんでおります。

変な気分で床について12時頃目を覚まし真っ暗の道を恐る恐る国道に出ました。数個の電灯が点いたコンビニも盗難に会ったのか入り口は板切れに釘が打たれひどい有様でした。なるほど災害の後は盗難防止が肝心です。当然といえば当然この時間に女将の姿はどこにもありません。時折思い出したように車が過ぎます。人影は一つもありません。

以上が中洲士郎が見た被災直後の福島ルポです。


その頃我が由布農園では相棒のニイザワさんとガールフレンド。平和です。

アイパオの話(その3)

気がつくと数人の女子中学生が甲斐甲斐しく炊き出しのおにぎり一個と乾パンの缶詰を配り始めます。

驚きました。中学の先生たちと生徒たちの間ではちゃんと段取りが付いていたのでしょう。何時もの練習で試合に臨むかのように淡々と役割を果たしております。悲しみを沈黙に押し込める年老いた被災者たち、日頃の訓練をさらりと演じる先生と生徒たちを先ず観察しました。「これこそ日本人の美徳なのかなあ」複雑な気持ちです。背広にネクタイの今思えば異様な風体のこの老兵にも娘が無言で食べ物を手渡して呉れます。「この年頃になると必ず神様がふっくらと色白に焼き上げてくれるものだな」とその娘にちらりと目を配り食にありつきました。

空腹も覚えず美味くもない飯を頬張り乾パンをかじり終わると少し避難民の気分になって校内をうろつくことにしました。停電はなかったが水道管が破損した水洗便所は溢れた糞尿で大変な事になっています。トイレと言えば夜が更けて校庭に張られたテントの中、ダンボールのトイレで娘達が用を足しているのです。男のように立ち小便とはいきません。自然災害で第一の困難はトイレだと思い知らされました。汚物の沁みた紙トイレの山積みを見るにつけて現代人の策のなさに呆れてしまいます。

地面にサッと穴を掘ってそこにパナソニックの洋式トイレを据え、その周りをカーテンで囲えばいい。用を足したら土をかけるのです。発酵菌が一緒なら糞尿は直ぐに土に還ります。フィンランド人は湖畔で皆そうやってます。

昔ならインデアンの酋長よろしく経験豊富な翁が適切な指示を出し皆は素直に翁に従って被害を最小限に抑えるでしょう。だが「平時の弱虫達が有事になると大声の害虫達」となって何にでも正論のイチャモン付けるのです。至る所でそれを目にしました。彼らは自分の意見が通るのが嬉しいだけで何ら解決案を用意するわけではありません。平時のルールが有事では問題解決の妨げにさえなります。じゃあ一体全体どうすればいいのか。答えは有るはず。その答えをこれから見つけ出さなくてはいけません。

その夜、暖を求めて立ち入った教員室のテレビに報じられる恐ろしい光景はまさに日本沈没でした。遠く千葉の石油コンビナートも火の海に包まれています。この久之浜地区でも42名の犠牲者が出たとのこと。あの土煙の下が阿鼻叫喚の世界だったとは。中洲が乗車した富岡駅も流されてしまったそうです。避難所は沈黙が支配しています。年寄りが多い。幾度と繰り返される災禍の中で地方の人々はその時いつもこうなのでしょうか。テレビの向こうで喋っている行政や報道人との温度差が余りに大きいのです。

行政の第一の使命は人民を災害から守ることと迅速な災害復旧でしょう。良い政治か悪い政治かは災害の時に露呈しますね。会社も経営者も然りでしょう。テレビの向こうは本当に恥知らずのエリート達、それとも経験と知恵が無いだけなのだろうか。だったらこちらから知恵を出してやればいい。災害の時に先ず必要なものは何か?退屈だから校内をうろつきながら思案しました。

それは家でない家。即ち10平方以下の雨風に強くものの数時間で建ち上がる綺麗な家です。空き地にどんどん建ちます。ラーメン屋、集合トイレ、お風呂、二階は子供達の部屋で天井には映画も映ります。ラブホテルも有ったりして。道具小屋も欲しい。しかも価格は躯体だけなら10万円。校庭中に各色のドームが光っているのです。子供達はここがいい、ここに住みたいと。

早速例の害虫たちがやって来ます。「ところで君ィ、建築基準法は通っているか」と。「あなた10平方以下は家じゃない。だから法律は適用されませんよ」「台風が来て小屋が飛んだらどうするんだ」「逃げればいいでしょう。今回の津波に比べれば台風なんてどうにでもなる」

士郎の脳味噌が震え出し例のうわ言が始まり次第に熱くなって来ました。「俺は九州に戻って直ぐに救援にやって来るからな」と。

久之浜中学の体育館で

久之浜漁港。夜通し燃え続けました。

久之浜漁港。壊れた岸壁

アイパオの話(その2)

2011年3月11日午後2時46分に異変が起こりました。東日本大震災です。世界が戦慄する中で日本中がこの災害に巻き込まれて行きました。

事もあろうに中洲士郎を乗せた常磐線富岡駅2時20分発いわき行き上り普通電車が久之浜駅を過ぎて国道6号線が寄り添うように走って踏み切りに差しかかった時です。突然ガタンガタンと大きな音を立てて列車が飛び跳ねるや急停車したのです。国道を走る車はバウンドしながら止まりもせず走り続けています。

何か少し滑稽な感情に囚われて眺めていますと、まばらな乗客の前を車掌が運転席めがけてすっ飛んで行きました。何とオーバーな事と可笑しかったがその車掌に列車から線路わきに飛び下ろと指示されたのです。降りた線路から後方を見やると500メートルほど先に久之浜駅が 目に入ります。仕方なく乗客20人ほど連れ立って駅に向かいました。その時5メートル程眼下に広がる太平洋はとても穏やかでした。

駅迄の途中の家屋、駅前、駅舎とプラットホームもそれなりに破壊されていましたが、まあそんな程度の地震だろうかなと思って観察していました。ところが地震に続く異変がまず天空に起こったのです。不気味な暗がりが周囲に広がり気温は急速に下がって降りだした雨がみぞれに変わります。

高所を探すと線路に掛かる跨線橋が目についたのでそこに上がりました。人気のない沈黙の街に退去を呼びかけるパトカーの間の抜けたゆるい声が耳に入ります。次に東の海の方を眺めてみました。こんな時に津波なんか本当にやって来るのだろうか?不謹慎な期待もあって遠くに目を凝らしました。すると5分程して突然東の彼方の空全部を土煙が覆ったのです。

雲じゃなくて物体が押し寄せて来ております。慌ててiPhoneをビデオモードにするが何と電池残量が乏しい。それでも撮影を開始しました。「やあ電柱がなぎ倒されている!」隣の声。士郎は目が悪くよくみえない。「わあ水が来る。6号線にも溢れ出したぞ。」騒ぎが大きくなり彼方の土煙の中に火の手も上がり出しました。その時誰もが感じるのは津波はここまで来やしないだろうという変な確信です。しかし駅長に叱られ促されて線路を渡り高台にある久之浜中学に避難する事になりました。

途中で傍の川に目をやると何と川の水が陸地の方に逆流しているではありませんか。我が目を疑います。小型車が泳いで上がって来るのです。校舎に入る前に正門の横の空き地に入り火の手が上がっている久之浜漁港を眺めることにしました。沈黙の中で街の火が延々と不気味に燃え盛るのに消化作業の気配が全くありません。久之浜漁港では確実に大惨事が起こっていると実感しました。後で解ったのは無常な2番津波が港を破壊尽くし42名もの命を奪ったのです。

周りの誰一人からも港に救出に行こうとの声が上がらない中、中学校の体育館に入り大勢の被災者と寒さに震えることにしました。俯いて無言の数百人の被災者を支配する空気は一様に「嗚呼、仕方がない」でした。

列車から降ろされました。

アイパオの話(その1)

今日で欧州出張は終わりです。夕刻の帰国便には台風24号の手荒い出迎えが待っております。

この出張でも沢山収穫がありました。即行動(大抵は軽率な)を信条として来た中洲にとってブログは貴重な体験になっております。一旦文章にする事で少しですが物事を再考することを覚えました。それと間違った記述で人様に迷惑をかけるか怒りを買うんじゃないかと心配になります。言も重いに越した事はありませんが。

ブログに間違った事は書けません。事実の裏付けが必要だとフランスのエリックにミュンヘンに来てもらいました。ところがブログの為じゃなく現行のビジネスにとんでもない発見があったのです。

それは日常の仕事での歴史と人文地理の重要性です。どの様な職種、立場にあっても過去の歴史を徹底的に洗い直し現在の人文地理を把握するなら自ずから戦術が明らかになるという当たり前の事です。責任者ならその心得は必要条件ですが果たして世にどれほどの責任者が心しておりましょうか。

然しですよ。もしも世に出た駆け出しの若者が職場で誰よりもこの2つを体得して政策を立案したらどうなるでしょう。「孫正義」も「スティーブジョブス」もテスラの「イーロンマスク」もそこを解っていたのでしょう。そして大事業を成し遂げました。中洲士郎はこれに気付くのが遅すぎました。いみじくもブログ記載のためにエリックの話を拾って化学発光の年史を埋めるうちに明日が炙り出てきたのです。有史この方、国も会社も覇権を戦略の中心に置いて戦って参りました。ルミカの事業の目標を覇権に置けばその道が歴史上に見えて来たという事です。

今回のドイツ出張中に取引先の女性社員と仕事の夢を語りました。昨年覚えた「タリスカー」に代わって今度はスコッチシングルモルトの芸術品(写真のオーヘントッシャン)のストレートです。世の中にこれ程芳醇な酒がありましょうか。この酒に酩酊しながら語り合いました。

英語ドイツ語を自在にこなし理系にも明るい彼女の話では「この世に生を受けて大学で学んで今度は恵まれない人たちの力になりたい」それでソーシャルワーカーに進みたかったが父親が許さなかったと。彼女の考えには中洲酔いに任せて強く反論します。「お父上に同感。奉仕では貧困の問題は解決しない」「施しを受けるよりも取引を望む。それが人間のプライドだ」「だから中洲士郎は世に1億人ものホームレス(実際はこの数倍)に家を売りつけるビジネスを思いついた」延々と彼女にまくし立てること15分。多分何事も打算に走る中洲の姿勢には彼女同調してはおりません(経済至上主義で人類は幸せになれるのか)。この世界一の大ボラを実行に移すのは2年後としておりましたがこの才媛に極秘のミッションを明かした以上早速着手するしかありません。そして会社の可愛いシトミちゃんの「他のホラは良いけどアイパオのホラだけは許しません」との無礼千万な物言いに鉄槌を食らわせましょう。

それではアイパオにブログの焦点を当ててキホーテにならい痩せ馬を進めてまいります。

「こいつはストレートだね」

ヘルシンキにて

皆さ~ん。とお声掛けします。この歳になり初めて社内ブログを公開してみて思案すること沢山です。

最近ちょくちょく「ブログいつも読んでますよ」と社外の人に言われます。するとご当人に対して恥ずかしさと奇妙な嬉しさを伴う微妙な親近感が湧いて来るのです。逆にその結果このところ1ヶ月ほどペンが動かなくなってしまいました。

正確な情報を敢えて書き換えるのと、間違った情報を書き連ねる事は全く別物。となると自分の経験してない事はしっかり取材して裏付けを取らないといけません。それに人様に読んで頂くとなるとヤッパリ文章力です。暑い暑いといっても既に9月に入った夜更け、何の気はなしにiPadで青空文庫から大正昭和の小説をめくるうちに岡本かの子の短編小説「老妓抄」にたどり着きました。とにかく上手いのです。読者をグッと作中に引き込み、読後各自各様の人生にそんな「老妓」がチラリと姿を見せます。

中洲の場合は「中洲若子の話」で母親若子が駆け抜けた昭和を記す積りです。じゃあ若子とはどんな女だったのか。昭和とはどんな時代だったのか。彼女の何を残したらいいのかを「老妓抄」から思い起こすうちにこれも描けなくなってしまいました。

それに岡本かの子の語彙の豊富さと文章の艶。文豪だから当然といえば当然だが中洲の下手なブログに1分でも貴重な時間を浪費させられた読者は堪りません。それでも世間に恥をさらしながら老婆(ラオポ)に毒づかれながら「美味い話」を一つ遺してみたいもの、そんな気持ちで「岡本かの子」にも「菊池寛」にもしばらく痺れておりました。

実は中洲に唯一自信がある主題と言えば「夢追う老人の他愛ない発明発見の話」です。これだとブログとしては無難ですね。しかしこれだって過去の発明ならある程度正確な時系列の中で記述しないとまずい事になります。

それもあってこの9月23日から30日までの欧州出張中にフランス人エリックをミュンヘンに呼び出し彼の側から化学発光物語を吐いてもらいました。場所はオクトバーフェスタの大喧騒のテントの中。英語フランス語日本語のちゃんぽんをアイフォンに録音しました。酔って宿でメモに抜き出し時間軸に整理すると言う涙ぐましい努力です。

皆さん、作家という人たちは大変な努力家なんですね。それって読者に読ませる為もあるけど実は自分が読んで面白くて仕方ないからじゃないかと思います。  中洲士郎も少しだけ作家気分でブログのための取材旅行を楽しんで感じた次第です。

オクトバーフェスタ2018