ケミホタルの話(その4)

中洲士郎が創業者から特別待遇を受けていたセラミックス商社を離職することになりました。その経緯はこうです。

中洲士郎は独立計画バインダーの中の超小型化学発光体というB6インデックスカードを栗本に切ってからは、独立という淡く甘い夢が急速に現実味を帯び始めました。

1977年夏大阪中之島図書館で閲覧したACCの基本特許の資料やサイリューム製品1箱640本をACCの日本子会社から取り寄せて栗本に送りました。開発が順調との粟本の知らせが入ります。心が騒ぎ出します。「ヤッパリもの作りの仕事に入りたい。栗本のように光ってみたい」と。

土台どこから今のような商いの道に迷い込んでしまったのだろうか。そもそも冶金工学を選んだのは若子の旦那の山田稔が勧めたからでした。彼はボイラー屋で父親の亥蔵は釘屋。どちらも金属系だったわけです。

然し全く面白くない学問でして毎日退学しようと考えているうちに若子と同年の植田教授に出会い教えを受けて実験装置作りと理論を検証する作業を通して生まれて初めて学業の面白さを経験させてもらいました。

就活では山田稔のコネで北九州のS金属の線もありましたが気乗りしないしおまけに手にした「トーマスJワトソン」の伝記にミシンのセールスマンが60歳で起業したIBMを世界3位の大企業にする下りを読み「先ずセールスを覚えてみよう。製鉄所勤めでは世に出れんだろう」となんとも気安く進路を変更したのです。

そして植田教授に探して貰ったのが大阪にある小さなセラミック商社でした。

「この会社を辞めようか。辞めさせてくれるかな」遂に覚悟を決めました。大阪駅前旭屋書店の喫茶店でしたためた「不退転の決意で会社を辞す」との大仰な書き出しの辞表を総務部に提出して数日、全く予想外に辞表がアッサリ受理されて愕然とする中洲士郎でした。

1977年暮れ10年世話になった会社を遂に強く引き止められることなく退職してしまったのです。12月27日、日産のオンボロ車に同乗したのは柳川タエと幼い3人の子供それに手乗り文鳥の文太と幼鳥8羽。メスは逃げてしまっていません。

西宮からフェリーは福岡の行橋に向かいます。真夜中、デッキで独り漆黒の海が東へ流れて行くのを黙って眺めていると背後から「アンタ大丈夫ね?」柳川タエの声がします。            

「そうか。ただ面白いから真っ黒に泡立つ白い航路を見ていただけなのに身投げでもしないかと心配される境遇になったのだ」

国に戻り母親の店に身を寄せての一時、士郎の里帰りで(一緒に赤ひょうたんがやれる)と歓喜した中洲若子でしたが士郎の別の独立開業の企みを知って失望します。そして調理場をサボっては夜な夜な仲間を集めての二階での密談。若子と大げんかになるのが1978年大晦日近くでした。士郎から脱いだ割烹着を投げつけられた若子「何を!裏切り者め」とばかり激して店の円筒石油ストーブを蹴倒しました。

士郎は仲間たちが待つ人形小路の「かげやま」へ一目散。この「かげやま」という店は 中洲士郎それに妻の柳川タエが一番懇意にしておりここの女将は正しく「粋のかたまり」でした。中洲若子の店とは対極の雰囲気で森繁久彌が終生愛し続けた、止まり木5脚の居酒屋です。

壁一面には久彌直筆で「酒よし肴さらによし。女もよければ来てみんしゃい」と大書きされております。

中洲若子それが癪の種で「かげやま」には終生強いライバル意識を持っていたようです。死んでしまった今では、おっ母に悔しい思いをさせたことが悔やまれます。

その「かげやま」で「日本化学発光株式会社」の旗揚げ式を行いました。だがその事業は粟本主導で進みます。有田焼のK社を巻きこみ更にM百貨店外商部も加わり粟本は暗黙のうちに仲間の首班に収まります。粟本はキラキラした目の野心家で世の成功者の一人に列せられる素質は充分にありました。

但し彼の欠点は吹聴したがる事、それも事をなす前に誰彼となく自慢することでした。そして自縛にハマります。

ケミホタルの発案者が自分でなければ辻褄が合わなくなりました。「じゃあ中洲士郎は何者だ?」「あいつは山師だから首にする」との話が士郎の耳に入るようになるのです。

中洲士郎起業13番危機の最初の1番がそこに待ち受けていたのです。

思えば「あの若子の卵管での精子事件」以来世に出ても飽きもせず危機が続きます。死ぬまでトンマの中洲士郎なのでしょう。しかし皆さん。一つ一つの危機が実は面白く思い出されついつい喋りたくなってしまいます。これから時間をみては危機13番の顛末をここに綴って参ります。

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