中洲若子の話(その2)

天王寺詣りの話の発端はこういう事でした。

若子が中洲士郎を生んで暫く西中洲で芸妓をやっていた事、三味線や小唄が下手で難儀していたようだと冊子「若子」に書きました。だが20年仕えた旦那の山田実も逝って士郎も就職して中洲赤ひょうたんを独りで切り盛りする孤独の若子に嫌だった芸事への郷愁が湧いたのでしょうか。その当時も芸事の中で「生け花」だけは天職と念じ岩田屋デパートはじめ天神界隈のウインドウを飾っていたが息子も嫁もそれを褒めてはくれぬ侘しさの中、幽玄のお謡いの世界に眼を開かされたのでしょう。

それも観世流家元直伝で儲けた金を注ぎ込みます。しかしそもそも中洲一族に美声のDNAは皆無。とても聞けるものじゃないのに能舞台にでる厚かましい若子を軽蔑しておりました。

だが中洲士郎は2013年11月14日若子が逝って2日の間、一人で若子に添い寝した時、怖い思いをしたのです。妻の老婆(ラオポ)中州タエが前もって用意していた旅立ちの衣装を送り人が若子にまとわせ死化粧をするうちに段々畏怖を覚えてきました。

そう言えば中洲若子は士郎幼少の頃から毎日ビシリと着物を着こなしておりました。姿見に映る自分の姿を厳しく吟味していたようです。

長い間ベッドの上で身動きままならぬ生活から解き放たれて老婆(ラオポ)が用意した七草模様の着物を羽織ると夢の中で鏡に映る自分の姿を吟味し始めたのでしょうか。老いてボケ顏だった筈の若子が威厳に満ちてまさに謡い始めるのかと錯覚する佇まいに変じたのです。

旅立つ若子の脳裏には山田実との葛藤の日々、死ぬ前に東京から遥々八幡にまでやって来た独り歩行も儘ならぬ老いた亥蔵の魂との再会を正装して謡っているようでした。それで少しだけ能「弱法師」の物語が気になっていたのです。

最近になって稀代の才女で異才の白洲次郎の妻白州正子の書を読みました。そこには友枝喜久夫の「弱法師」の仕舞の感動が綴られており、やっとこの歳になって謡とお仕舞いの奥深さを教えて貰ったわけです。それでNHKのDVDも買って幾度か観てそれで若子の下手な謡を思い出すことになりました。

次回は中洲士郎の父親辰野亥蔵が「弱法師」の父道俊さながら老いて最後に母子に逢いにはるばる旅して来たお話し聞いてください。

若子の謡を1度でも聴いて褒めてやればよかったなあ。今は処分してしまいましたが樟脳の匂いのする若子が残した夥しい和綴じの観世流の謡本の中に弱法師の表題を観た気がします。

中洲若子の話(その1)

中州若子の遺伝子が災いして中々枯れた好々爺に近付けない生臭爺いの中洲士郎でございます。幾人かの読者にこのブログを読み続けて頂いており心底恐縮しておりますが。老婆(ラオポ)にも遂に見つかるところとなり「あんなブログおぬし狂ったか?恥ずかしくって団地歩けやしない」「あんなブログとは失礼な。団地でルミカのブログなんか開く人いやしない」双方応酬の中ブログ存続が怪しい空気です。

素寒貧の男が渡米しスーパー企業のACCの懐に飛び込むまでのイカサマ行脚は綴り終えました。ここらで小休止して今度は読者の皆さんと未来への企みを始めましょう。「中州若子の話」で用心深くこの母親をブログに蘇らせるのです。そうする事で父親辰野亥蔵も蘇り必ず何かが起こります。数少ない読者と一緒にスリリングな旅を始めましょう。先ずは「弱法師」の話から。

某月某日

前夜は酩酊してホテルのベッドに倒れこみそのまま爆睡です。

大阪支店では皆さんと1人づつの個人面談しました。1年以上の交換日報でオンライン上は大変親密、それでオフ会と称してお喋りを楽しんだのが個人面談の真相です。若い連中が、中でも妙齢の娘たちが話し相手してくれると気分がナマめいてまいります。結末は「今期も宜しく頼む」の慣用句です。

支店を少し早めに出立して四天王寺散策にしけ込みました。引率の支店長のエンドーさんが「支店近くのこの寺に何用?」といぶかしがります。

この寺の西門の先に石鳥居がありここからの夕陽の眺めは日想観と言って極楽浄土が拝めると古来信仰の場でした。

能に弱法師(よろぼし)がございます。父の道俊に捨てられ放浪し盲となってここ四天王寺で物乞いする俊徳丸が父親とここで再会する物語です。盲ながら心に刻んだ石鳥居からの風景を「さて難波の海の住吉の松原、東の方は春の緑の草香山」と謳う俊徳丸。「これより更には狂わじ」もうこれ以上は狂いたくないと呟いて道俊を避ける痛ましい青年の姿とこれを見て父親の喜びが当惑に変じる舞台が演じられます。

その石鳥居から眺める現実の風景は無数の小汚い建物に覆い尽くされております。かってすぐそこまで緑の松の海辺だった事を誰が想起できましょうか。年老いた父辰野亥蔵が亡くなる前に遠く九州まで捨てた母子に逢いに来ていたのを知りました。その辰野亥蔵と道俊、俊徳丸と我が身をダブらせてしばし感傷に浸る中洲士郎だったのです。とだけ書けば相当わざとらしく鼻摘まみもんです。

これもその真相は?

青山功夫の話(その4)

船のキャビンでHパワーの面々とビールを飲みながら今後の協力関係を話し合いました。

途中でジュディが自慢げにテーブルで発光液の演出をして見せます。40年経った今日でもこの演出の魅力は変わりませんね。しかしここはイカサマ氏の士郎、面目をほどこす為に船のキッチン戸棚からクレンザーを見つけ談笑の間にこれを発光液に振りかけたのです。

今で言う大閃光を引き起こすと相手の3人が「一体何をやったのだこの日本人は」と驚きます。たくさん情報仕入れて彼らの作戦と実力を値踏みして中洲はロサンゼルスを後にしました。

ジュディからしっかり情報を仕入れてシカゴのマコーミックホールに乗り込みます。ただ心に念じるのはACCとの契約です。開会までに時間があるのでデトロイトのサイリューム扱い商社のキャデラック社を訪問することにしました。これも全くの思いつきでした。

ジュディとの同盟関係だけでは心許ないのでキャデラック社にも保険を掛ける算段です。ACCが相手にしてくれず特許でクレームを受けた時の備え、それに今回の渡米で日本のCYJとの関係が壊れたらサイリュームの別ルートの仕入れ先確保が必要です。キャデラック社は日本にも支社があるので平行輸入出来るかもしれません。応対に出た副社長と熱意が感じられない小1時間の協議でいとまを告げてシカゴに向かいました。未だ第2の保険は掛かっていません。

 ミシガン湖のほとりに聳える大きなH鋼むき出しの勇壮な見本市会場マッコーミックホールでは薄暗い屋内に鮮やかな赤いカーペットが敷き詰められています。東京の晴海の見本市会場など比較にならんこの豪勢な舞台が士郎の闘いの場となりました。

福岡県商工課のブースは展示場の端の方で県内の中小企業6社ほどが参加しました。共同出展社に久留米絣の会社があってそこの美人社長、結構有名人らしく人柄で皆さんを和ませてくれます。だがこんな所でショーケースに品物並べて商談が成立するなど誰も期待していません。まあシカゴで見本市に出したとの話題作りだけが目的のようです。

だが中洲だけは違います。この見本市に会社の命運がかかっているのです。そのギフトショーが華やかな開演と同時に作戦が決まりました。この後のテキ屋稼業中洲流の原型です。その作戦とはこうです。

出品者であろうと来場者であろうと子供を見つける端から光るイヤリングを付けさせるのです。会場内は薄暗いから可愛い耳元が光に揺れます。これを見た別の娘が欲しがって親と一緒に福岡県のブースにやって来ます。福岡県のブースに沢山ゲストが訪れるので思わぬ盛況です。この時の出展の大成功が福岡県の会報に掲載されて商工課の皆さんと久留米絣さんからは後々まで話の種にして頂きました。

会場内に騒ぎが起こります。いずれこの騒ぎがACC他の関係者に届くはずです。「天下のACC社のサイリュームに競合が出現した」とのニュースが昨日訪問したキャデラック社にも届きました。

見本市2日目、前々日訪問したデトロイトのキャデラック社の副社長がもう一度デトロイトに来てくれと頼みにブースにやって来ました。社長が会いたがっているとのこと。それで翌日シカゴからデトロイトに行きここでも「勿論一緒にやりましょう」と中洲愛想を振りまきます。話し合いの途中で別室に連れて行かれたのは会話を録音するためだったようです。意に介せずただ「仲良くやりましょう。何ならミニ発光体で独占契約しましょう」と伝えて相手の気を引きました。だが狙いはあくまでニュージャージーはウエイン市にあるアメリカンサイアナミッド社。ここを攻略する為に周りに火を付けるのが中洲の作戦でした。多分シカゴのニュースがACCに伝わる筈だと確信しました。

見本市が終わりニューワークに飛びホリドームというホテルでACCに電話を掛けて待機します。翌日ホテルのオペレーターが電話を繋いできました。

電話の主はヴァンキャンペーンというサイリュームの国内販売担当者です。

「会おう、来社するように」という電話です。

この後日本のACC子会社CYJから電話が入りました。販売担当の大林さんからです。「士郎さんやるねえ。アメリカに行ってるんだって。今会社は大騒ぎよ。ACCからイマワキ社長怒られてるんだって」と。

始まりました。もう後には引けません。

青山功夫の話(その3)

東欧からやって来た美女ジュディー・ウオールデンの話から化学発光ビジネスの源流をたどってみます。

中洲士郎と同じく1979年怪しく光るロープを操ってキャミソール姿でパフォーマンスするブロンド娘がハリウッドで話題になりました。

夜毎ロスの遊園地に出没し踊った後小脇の50cmほどの細長い光るロープを1本5ドルで見物客に売り捌き姿を消すのです。

セールスの基本は洋の東西を問わず対面販売なんですねえ。幾らアマゾンが勢力張ってもデパ地下での調理器の対面販売は無くならないでしょう。暑い夏の夜祭りには何処でも威勢のいい「寅さん」が不可欠です。「おしん」と同じく貧困から抜け出そうと世界の若者が遊園地で物売りを始めます。売れる商品を掴んだらそれをテキ屋達に卸して利益を蓄えて起業する訳です。

中洲の仲間内で成功者と言えば米国ニューポートでケネディ家の隣に別荘を構え自家用ジェットを駆るボブノワックです。ポーランド人のボブの場合は理系のカレッジを出て直ぐにACCと談判してサイリュームを夜店で扱って財を成しました。「利は元にあり」を地で行ったわけです。一方ジュディは悪い男どもに翻弄されて成功出来ませんでした。「びっこのアヒルの群像」を一緒に見て参りましょう。

そのジュディの冷たく緑に光るネックレスがヤンキーの好奇心を引きつけ飛ぶように売れ始めました。当然ながら獲物を探すマフィアやストリートベンダー(日本でいうテキ屋)の目に止まります。起業家への夢を追う貧しいルーマニア移民の娘ジュディーとこの事業を横取しようと企む血走った眼の狼どもと熾烈な闘いが始まろうとしていたところに変な日本人が光るイヤリングを懐にノコノコとやって来たわけです。

中洲達はサイリューム6インチをバラしてミニサイリュームに作り変えました。ジュディのは光った液を柔らかい透明チューブに移し替えて冷凍保存して一時的に光を止める方法です。

ディズニーランドは特製の冷凍庫を用意して園内で販売を始め子供達の人気商品に仕上げました。

ところがサイリューム6インチが思うように手に入らないからジュディは頭に来ていました。「民生用最大の顧客なのに何故冷遇されるのだ」と。

それは士郎にとっても日本に居て感じます。だから「利は元にあり」と根っこのACCと関係を築こうと無い金はたいて米国にやって来たのです。ジュディに招待されて彼女の持ち船リクィッドライト号が夜のロス湾を周遊する間彼女の憤りに相槌を打ちながら原液をACC以外から入手する企てに作戦が及びビックリしました。偉大なACCを敵に回すなど考えられない事ですが世の中既に動き出している事を知らされたわけです。

ジュディの話ではサイリュームを扱うデトロイトの商社、キャデラック社とシカゴの夜店の元締めケミカルライトのマイクシュライマーが結託してジュディを干し上げようとしているらしい。

キャビンにはホランドと名乗る金ボタンの黒いジャケットを着たヒゲの濃い「いけすかん男」が一緒です。ジュディが「婚約者よ」って紹介しました。後で知ったのはこのホランドは本当に悪いやつでした。バーテンダーをしていたバーに仕事疲れのジュディが小脇に光るロープの束を抱えて入って来たのです。閃くものがありこのライトロープビジネスを手に入れるためにジュディをモノにしました。ジュディの会社に入り込むや小切手を乱発して会社を財政危機に陥れたそうです。大きく羽ばたけた筈の娘が事の初めにこんな男の手に落ちるとは。人の事は言えません。日本化学発光もはした金で危うく命を落とすところだったのですから。

ハリウッドパワーの製造設備はフランスからやって来たルークノーエルが立派にこしらえてジュディを助けていました。フランス青年のルークノーエルはジュディを好きなようです。

 一方フランスではパリでポールノーエルという老人がサイリュームの発明に触発されて自分もこれを作ろうと考えました。「な~に、ヤンキーに出来ることなら自分にも出来る筈だ」と。フランス人の対抗意識です。これを長男のエリックノーエルが引き継ぎベルギーのジャックレジデンスキー(名前の通りロシア系の化学者だ)と組んで原液の開発に取り組んでいました。父親ポールは次男のルークをジュディのもとに派遣して米国での販売拠点を作ろうとしたわけです。

お分かりになりましたか?1981年当時化学発光のビジネスを俯瞰すると大親分のアメリカンサイアナミッドを頂点にして「イケメンに弱い小娘ジュディ」ー派、フランスでサイリュームとの競合を企てる「本格派ノーエル」一家、ACCに取り入って起業する「正統派ノーワック」組、それと日本の「びっこのアヒル中洲」軍団です。

ジュディの話ではサイアナミッド社にも協力してくれる化学屋がいるらしい。分かったことは熾烈な原液獲得競争が始まっていた事です。だが何があっても開発者ACCに誠意を尽くすのが我々日本人が共有する商売の道義なのです。だからジュディと手を組む道は先ず無いだろうと思いました。

振り返ると「目先の利」を追った連中は結局敗れ去って行きました。

後に「ケプランの話」で登場しますが巨艦ACCを倒した弁護士のケプランは「象を飲み込んだワニ」として中洲の宿敵となりました。これも理論通り「飲み込んだ象を消化出来ず」可哀想に今は「立ち上がれ」の声が聞こえない境遇なのです。

この章は「青山則夫の話」でした。これから縷々お話ししたいのは凡人中洲の目で見る青山の超越した頭脳と文藝と心中せんとする潔癖性。一方で蔑む民間事業を覚悟が無いまま真似してシジフォスとして潰えて行った1人の男の物語です。中洲にはこれを描き出せる自信はありませんが挑戦してみますね。

 

青山功夫の話(その2)

常宿は芝公園の中の小さな山要荘という安旅館にしました。使用人の婆さんが親切で中洲を気に入っていつでも泊めてくれます。

東京営業所の名刺も出来ました。事務所で最初に手掛けたのは光るイヤリングの開発です。釣具以外に営業の柱が必要です。バルジンの取引先に頼んだら早速12種類もの各種デザインのシリーズが出来上がりました。何と便利な間借り先でしょう。新しい商標も必要です。結局「STARLITE」を玩具ノベルティ向けの名前としました。

ある時青山先生は背を向けて東京理科大学で英文学の講義の準備中でした。綺麗なチーコさんが「そうお。中洲さんアメリカに独りで交渉に行くの。じゃあ英語喋れるんだ。凄いね。青山は英文学者のくせに全然喋れないのよ」背中に目があるのか青山先生「中洲くん。Undertakerって何だったっけ」試して来たのでしょう。「葬儀屋でしょう。スティーブンソンの宝島の初めに出ますね」たまたま思い出して答えたら何だか白けた空気になりました。チーコさんを挟んで青山との対決も始まるようです。いや中洲は既に光るイヤリングの商品開発で理屈過多の青山に違いを見せて挑戦していたのです。

そんな中で中洲は寄らば大樹の陰、ここは世界に先駆けて化学発光原液を権利者である米国ACCと米国政府から獲得しようと企みました。分かっているのはニュージャージー州ウェイン市にある米国ACC社の住所と電話番号だけです。日本で言えば旭化成クラスの巨大化学会社に紹介もなしにどうやって乗り込むかです。 

一つ耳寄りの情報が入りました。ロスにハリウッドパワーという女性社長の会社がサイリュームの光るロープを売り出したというのです。そのロスの住所を聞き出し出来たばかりのスターライトイヤリング12個セットをプレゼントとして送りつけました。女社長のジュディからのお礼状には「ミニ発光体の開発成功おめでとう」とあります。これも中洲流営業の一つで「新製品贈り付け作戦」です。案外時間が経っても効果がありますから覚えておいてください。

折しも福岡県が県内の中小企業にシカゴでのギフトショー共同出展を募って来ました。これに中洲は閃きを感じ、取り敢えずこれを利用することにしたのです。出来たばかりの光るイヤリングとケミホタルのサンプルの輸出も全て県がやってくれました。他社のカタログの外国人モデルの写真の耳に光るイヤリングを付けて写真に撮ってStarlite Earingなるインチキチラシも同梱しました。

化学発光を取り巻く諸般の事情に明るくなってきた青山先生どういう訳か中洲の米国行きに異を唱え出したのです。「小型化は立派な発明だ。米国におもねる事はない」と。全てに純粋思想の青山は揉み手を擦っての商売が全く肌に合わないようです。早くも中洲と青山との間に不穏な空気が漂い始めての渡米決行でした。

シカゴの見本市開催日よりも4日早く米国に渡りました。機内でダメもとでロスのハリウッドパワーを手始めに料理することにしました。飛行機の中継地アンカレッジ空港の公衆電話で番号を調べアポイントを取ることにしました。25セント硬貨がドンドン減る間に用件を伝えるのに汗だくです。

皆さまお分かりのように中洲の辞書には用意周到なる単語は有りません。兎に角出たとこ勝負です。飛行機が出発して作戦を考え始めました。中洲の英会話なんて本当にいい加減なモノです。喋るのは頭で英作文して相手が分かればOK。聞く方は相手の単語2、3個で相手の意図や状況を推測するのですから大抵的外れです。今回もジュディは大韓航空で渡米して来るから中洲を韓国人と思っていたのです。

兎に角ロスに着いたらハリウッドパワーを訪問する事。そしてシカゴのギフトショーに出展する事最後にACCに乗り込んで原液供給交渉を始める事に筋書きが決まりました。

大韓航空機は巨大なロサンゼルス空港の隅の汚いターミナルに到着します。

青山功夫の話(その1)

さあそれでは諸君一緒にアメリカに渡って米国政府が門外不出とした化学発光の原液をせしめましょう。何事も為せば成る。成らねばイカサマして為そう。

1981年7月28日大韓航空機KE012便はソウルからアンカレッジ経由でロスへ向かっております。

行く手に地球の稜線がオレンジの弧を描き機体が徐々に高度を下げると夜のとばりが降り始めたロスの街並が美しい光の格子で輝いているのが目に入りました。午後9時40分士郎37歳になって遂に渡米の夢が実現したのです。

この時の大韓航空機は使い回しのオンボロで機内は移民で溢れかえりキムチの匂いと赤子の泣き声が夜通し続くエコノミーというより難民クラスと言うべき客席でした。しかし士郎は感激で震えが止まりません。それは未知の米国で始まる戦いの前の武者震いでありました。

 それでは先ず何故この時期米国行きを決心したのかをお話します。

会社には使える金が80万円しかありませんでしたが、これを全部持ち出しました。動機は会社があるうちにせめて一度でも憧れの米国を見ておこうと考えたのです。前の会社では遂に一度も海外に行かせて貰えませんでしたから。

釣具市場で人気が出てきた化学発光体に対して「あれは特許違反だから長くは続かない」などとの大手メーカーの声も聞こえてきます。

サイリュームから液を抜き取るのは問題になりそうな気配がありました。1979年だけで1万本80年には3万本もバラし81年には10万本の勢いです。

日本の突出した売り上げが米国ACC社の興味を引きます。

「自社製品から原料を取り出し製品を作り替える行為の法的問題」を半分面白がって検討始めたようであります。(危険な予感がします)

一方で日本のACC子会社CYJは奇妙な利益を生む日本化学発光の存在を本国に隠そうとしていて士郎が米国と直接原液交渉するのを禁じております。従って今回の中洲の渡米は危険な賭けでした。

直に我々と同様の手口でサイリュームをバラし類似品が出回るでしょう。CYJが中洲だけを応援するという保証はありません。現にこの2月、東京のみやこ釣具商会から「ちびピカ」の名前でコピー品が釣り具市場に出現しこれを退治しようと戦っている最中です。

色んな騒動の中で2年目の日本化学発光は釣り具市場での売り上げを急拡大させます。矢張り大島商会依存は危険ですので釣り具以外にも販路を拡大する必要があります。そこで東京進出を決めました。金も社員もないので何処かの事務所に間借りしようと都内を歩きます。虫のいい話だから何処からも色よい返事が貰えません。そして結局渋谷の青山の会社バルジンに吸い寄せられたのです。

山手線沿いの粗末な3階建の山手石炭ビルです。2階の事務所には中年の男1人と女性2人それに居候が1人都合5名。3階は工場になっております。ものの5分間の話で間借りの話がまとまりました。社長の青山の部屋はフロアの半分を占めグルリ取り巻いた書棚には裁判の判例集が並び大きな机に背もたれの付いた回転椅子です。みんな青山を先生と呼びます。仕方なく中洲も先生と呼ぶことにしました。(雰囲気から誰でも間違いなく青山を弁護士先生と誤解する筈です)

銀座の英國屋の高級スーツに身を包む青山教祖に合わせて皆しっかり身だしなみを整えております。ここでは気高い精神性に縁どられた文藝の世界が主で「やっぱりお金」の卑しい現実世界はドアの向こうに隠されています。会話には洒落たウイットが常で毎日の食事は2人の女性が甲斐甲斐しく準備します。アルコールが全くない何事につけストイックな不思議な舞台です。終業は大抵夜10時です。

世故に長けた者ならばこれを見て即座にいかさま師の集団と断じたでしょうが未だ駆け出しの商売人中洲士郎は怪しむより崇高な世界にすぐに引き込まれました。破産者の青山集団のアジトに中洲鴨がネギを背負ってノコノコやって来て親しい仲間に加わったのです。

大島東市の話(その8)

釣り具での販売は契約書は改正されたものの大島に任せているので市場の様子が伝わりません。それで中洲は独り小売店や専漁問屋を訪問します。どこもケミホタルの社長が来たと言うので歓迎してくれました。大島は威張るのが好きでセールスは不得意のようでした。

寒さが厳しい時節でも北海道向けの出荷が落ちません。5°C以下になれば「ぎょぎょライト」は光らず使い物にならん筈だがと訝しんで札幌に飛びました。1980年の暮れです。

「お客さん何処から?」「九州福岡から」「どんなお仕事?」「まあ釣り具ですね」「私も釣ファンだけど。竿かリールですか?」「いや。ぎょぎょライトってつまらんものこさえているの」「何い。ぎょぎょライト!それが手に入らないから困ってるのよ」「娘さんいるならぎょぎょライトのイヤリング上げよう」喜んだ運転手さんタクシー代サービスしてくれました。タクシーに只で乗ったのは生まれて初めての経験です。それも何故なのか訳わからずです。

着いたのは札幌駅前の大型釣具店のアメリカ屋さんです。そりゃ当時は日本一と言っても過言でない規模と売り上げのお店でした。

驚いたのは「ぎょぎょライト」がお店に並んでいないのです。聞くと「品が足りないのでお得意さんにしか売らない。売るときは新聞紙にくるんでこっそりと手渡す。店頭に置くと直ぐに全部買い占められてしまうから」と。

話を聞いてその足で小樽の大島が卸している佐野商店さんを訪問しました。「大島からすんなりと品物が入らず困っている」と。

親父が小樽港の堤防を見学に連れて行ってくれました。

「あの左の暗い半分はぎょぎょライトが手に入らない札幌の釣り人。右の竿先が光っている連中は小樽組。皆3~5本の置き竿。ぎょぎょライトが付いた竿では大物釣れているが光が無い連中は車の中で寝ているの。可哀想に夜が明けなきゃ釣りが出来ません」釣り具小売店はぎょぎょライト確保が死活問題だったのです。大島の奴めと歯ぎしりしました。

こんな状態でしたから水面下で「ぎょぎょライト」コピー作戦が進行し翌1981年2月に「ちびピカ」の出現です。恐らくアンプルで栗本が原液のカラクリで大島が暗躍したようでした。但しチューブの溶封技術が分からず商品としてぎょぎょライトのレベルには達しておりません。

1982年4月には日本化学発光直販を大島商会に通告し大きな補償金を支払います。その大島東市はその補償金で喫茶店を開いたようでしたが矢張り化学発光から離れ難く結婚式の光る液体の演出を始めました。神事「水合わせの儀」を化学発光で幻想的に演出させたのは大島東市です。日本化学発光を退職した数名も一緒にこの事業に携わり競合相手と成りました。しかし結果は日本化学発光を利するだけでした。彼も(びっこのアヒルの群像のひとりとして)40年間懸命に水を掻いて化学発光に歴史を刻んだのです。

これで「大島東市の話」は終わります。

再失業の危機を偶然乗り切った「第2の危機」なら会社出生の弱点が「第3の危機」で克服し解消されました。だがその代償で「第4の危機」を迎えるわけです。これを1981年からの物語として「青山紀夫の話」に述べます。これは米国ACC社と独占契約を勝ち取って危機を乗り切った面白い話です。

会社創立2年目の1980年も初年度同様大変でした。社会では5月にはモスクワ五輪のボイコット9月にはイラン・イラク戦争が勃発し日本化学発光同様揺れ動きました。

大島東市の話(その7)

縁が無かった筈の青山先生からの静かで落ち着いた声です。「その後大島商会とはどうなりました?ふと心配になって電話しました」受話器を手に薄暗い工場を見回した程です。何だか透視メガネで見られているような気分です。

後に分かったのは青山がこの電話を寄越したのは彼の2度目の会社倒産でヤクザも混じって取り立て騒ぎの最中だったのです。あの時の清楚な女性「チーコさん」が機転を利かせて青山を建物の外に出し債権者を応接室に閉じ込めて外から鍵を掛けていたのです。

青山は史劇作家、演出家、そして彼女は史劇のヒロインでした。100人もの大所帯の劇団パロックの維持は並み大抵ではありません。団員達の私財を取り込むにも限界があり下手な事業に手を染めます。見栄っ張りの青山教祖のもとで借金は膨らみ続けました。そこでM百貨店山本部長と図り「日本化学発光」奪取を目論んだわけでした。

極楽とんぼの中洲士郎電話から戻り仲間に告げます。「神様の思し召しか。東京の凄い先生が大島のこと心配して電話を下さった。この先生に相談してみる」

中洲は青山を博多に呼んで大島と対面させました。青山の圧倒的な存在感の前に大島は職員室での小学生のようにかしこまっております。

「この契約書では大島商会の権利は法的に保証されないから作り変えて上げよう」との青山の優しい言葉に素直に頷きます。

すると青山、テーブルの原稿用紙に万年筆で一気呵成に契約書を書き上げました。一字の修正もなしです。サッと両社の署名を取り付けました。

これには契約の解約条項と補償金規定が盛り込まれております。(1982年相当の金額の補償金が大島に支払われて契約が終了しました)

先生の腕お見事。なるほど彼は東京理科大学講師、英文学者、高名な劇作家、役者、心理学者おまけに詐欺師だったのです。結局日本化学発光の収益の大半が大島から青山へと流れが変わっただけでしたが。

怪人青山は士郎にこぼします。「ああ嫌だ嫌だ。俺はあの小商人の無知な大島を騙して彼の得べき利益を掠め取っている」と。数年後「チーコさん」にこぼしたのは「生まれてこの方これ程人に利用された事はない。中洲には本当にやられた」と。中洲士郎人生でこれ程の賛辞を得ようとは。

大島東市の話(その6)

会社創立1年目の1980年2月東京晴海の国際見本市会場です。今回は自前のブースを持った東京釣具ショーで華やかにぎょぎょライトの発表です。

その人混みの中で今でも冷や汗の物語がここで始まりました。

その男、身長190cm近く堂々たる躯体 、大きな額が薄くなった頭髪の中に広がり眉は反り上がり眼光鋭く鼻はギリシャ彫刻に見る少しだが鷲鼻、唇は赤味を帯び少し薄いが品良い笑顔を作っております。   まさに歌舞伎役者のようでした。                          未だ嘗てこれ程立派な容貌の男に会ったことがありません。

付き添いの女性は黒いスカートに真っ白のブラウス、髪は清楚に結わえられております。

小柄だがいかにも知的な美人です。その彼女からその男青山への呼びかけは「先生」でした。この二人の出現で一瞬観客が静まり返えるのは正に後に知る詩劇の舞台です。

Mデパート山本部長の仲介などの通り一遍の話題の後、(既に予備情報は彼のもとに入っていたようで)現在の大島との販売契約に及び士郎差し出す大島と栗本の確約書を一読します。

彼は答えました。

「どうして折角の有望な事業を起こすのに端(はした)金でこんな契約を交わしたのか。この契約書がある限り貴方の会社は生き残れない」と。

そう宣託を残すと長居は無用とばかりに会場を後にしてしまいました。

名刺には「株式会社バルジン 代表取締役青山功夫」とあります。

「よくハッキリともの言う人だ」と感心すると同時に、この20分ほどの立ち話の間彼の表情は能面の様に変わらなかったのが強く印象に残ったのです。

さて読者諸君、世には色んな人がいるものですね。我々凡人からすると遂に彼の人生の命題が(どうしてそんな事でそんなに悩むのか)理解出来ないことがあります。

彼青山功夫は業(ごう)深き人の性(さが)を凝視して苦悩を背負って歩き続ける自らを「シジフォスの再来」だと信じているようでした。だから彼の事を軽々しくコメント出来ないのです。

しかし中洲士郎は図らずしもその超人に出会い戦ったのです。この第3の危機の記述は難しい。若しかしたら近い将来日本の偉大な知性人として青山功夫は蘇るかもしれないのです。(但し中洲士郎にペンの力が有ればの話ですが)

ここではどうやって大島商会との因縁の契約問題を解決したかだけ記しておきます。「これなら命を失う」と勧告する医者なら命を救う手立てを知ってる筈ですから。

翌3月北九州市小倉の西日本総合展示場で九州釣り具見本市が開催されました。ここでは一応仲良く大島と一緒にブースに立ちケミホタルの宣伝をしました。問題が起こったのです。

大島のやつ自分の晴れの舞台を惚れた美人の嫁さんに自慢したくて彼女をブースに呼んでました。お昼の時間です。中洲士郎は何時も女性にはそれは礼儀正しく親切です。「奥さん。仕事は旦那様にお任せして一緒にコーヒー飲みに行きませんか?」と誘い出しました。結果的にはこれが大島の逆鱗に触れてしまったのです。

後日ご丁寧にも会社の全役員宛に告発状が届けられました。

内容は「中洲士郎は無礼な男、自分の家内をコーヒーに誘って誘惑した。(但しうちの嫁はんはそんな手には乗らんが)兎に角けしからん男だ。云々。即刻解任せよ」と息巻いています。面倒だが日曜日遠賀の工場に4人の仲間が集合して協議です。

告発状を手にした3人の役員笑うでもなく怒るでもなく例によって何の発言もありません。「要するに大島ってのはそんな奴だ。しかし栗本との契約書取り返すまでは問題が続く。どうしたものかなあ・・」中洲独りため息をついたそんな時でした。

日曜日なのに電話のベルがジリジリと・・・。

大島東市の話(その5)

 ブログが進むにつれて中洲士郎今更ながら自分のマヌケさを思い知らされ呆れております。人の話を直ぐに鵜呑みにして大抵疑うことがないのです。

諸君、特に耳打ちでもされた時は(何か裏があるかも知れない)と疑って、何なら無視する方が安全ではないでしょうか。

その代わり賢明と思える判断ばかりで事に当たると人生で世にも奇怪な物語に出逢えないかもしれません。この奇っ怪な事の起こりはこうです。

1980年1月大島東市騒動の最中、電話がありました。

「M百貨店の山本で~す。士郎さん元気~↑。東京に良い先生がいるから紹介したいの。東大理一から文転した法律にも明るい先生だ。そ~お。東京に来るの。それなら今度その東京釣具ショーに顔を出されるから会ってごらん」Mデパート外商部山本順一部長からです。

この男、曲者。外商部部長の名刺で日本中に人脈を張っており独特の嗅覚でマッチメーカーの役割を果たしております。商業高校卒ながら努力し営業で頭角を現して外商部部長に栄達しておりました。老舗のMデパートとは誰もが取引を夢み彼に取り入ろうとします。元来人一倍面倒見がいい山本のところに商品と人材とイベント情報が毎日のように流れ込みます。彼はその情報を操り利を得ております。それがデパート外商部なのでしょうか。

土台、有田のF社とは「第2の危機」で袂を分かっているからMデパート外商部とも縁が切れた筈なのに。だが電話の中で(その先生に大島との契約の相談でもしてみようかな)との考えがよぎったのです。何事も好都合な方に思考を進める悪い癖が出ました。

あの脅迫電話の一件から大島商会との契約は改定しなければ会社の将来が危うい。かと言って弁護士に相談できる内容じゃなさそう。そこで大島東市を懐柔しようと会って話をしてみました。

「色々煩わしいからいっその事、会社を合併して一緒にやらないか」との士郎の提案に彼の答えがふるっておりました。

「鶏頭となるも牛尾となるなかれだ。俺は独立を選ぶ」と応えたのです。(士郎と同じ会社では嫌だ。一緒になればこの士郎に牛耳られる)という訳か。高校の漢文の大石亀次郎先生からは「鶏口牛後」と習ったような気がするが兎に角「簡単にお前の都合いいようには行かんぞ」と言っている訳です。

それでどうしたものかと頭を悩ませていた丁度その時でした。オレオレ詐欺みたいに山本部長が電話を寄越して来たのは。こうして人は策略にハマるんですねえ。