ケミホタルの話(その15)

1979年2月の東京釣具見本市でケミホタルが派手にデビューしました。             これは即ち日本化学発光中洲士郎と大島商会大島東一の対立の幕開けです。

大島からすれば栗本に500万円渡して釣具向け独占販売権を持つので士郎の販売での出しゃばりは好ましくありません。それに最初のケミホタルの形状は大島の希望を容れてロケット型で底に差し込み口が有ります。佐賀の福昭工業という成型屋で専ら士郎が立ち会って金型を作りプラスチック成型を行ったものです。

このような場合、金型代は依頼主の大島が支払う代わりにケミホタルは大島以外に販売できません。

だが姑息なことに大島は6種類のケミホタル専用浮子「ケミフロート」を発売して釣具店にはケミホタル単品販売を禁じたのです。

これはどんな浮子でも夜釣りが出来るとの謳い文句に反し市場からブーイングが起こりました。大島からすれば早く投資を回収する当然の手段だとして市場の声を無視します。おまけにケミホタルの穴にケミフロートを差し込む仕様ですからケミホタルの底を浮子が破って液が漏れるクレームが多発しました。

浮子を投ずると海面が漏れた液で光って「漏れホタル」と揶揄される始末です。最初の勢いはどこに消えたのかピタリと売れなくなりました。

そんなこんなで大島からの注文が全然伸びず経営は苦しくなるばかり、会社の資金は底をつきパートへの給与も払えません。栗本は会社に顔を見せなくなりました。大島の奴、敢えて中洲を窮地に落とし込む算段です。

これはヤバイと浅草の玩具の問屋を回って西多さんの所で夜店の水風船にケミホタルを入れて水チカホタルと命名して発売しました。注文は僅かでしたが大島を経由せずにここから夜店向けの販売が始まりその後のテキ屋相手の大太刀回りへと繋がっていきます。

しかし釣り人が別のところで人気を作り始めたのです。魚釣りじゃなくて丘釣りです。場末の所謂ピンクサロンでホステスの下着にケミホタルを入れて遊ぶのが流行りだしました。

実際中洲士郎と藤本二人で北九州は黒崎のピンサロでそれをやったらもう大受け。士郎調子に乗って暗がりでケミホタルを口に含んで「ニイーッ」とやるとホステス達に馬鹿受けしました。

さてさて中洲士郎第2の危機栗本編の最中、第3の大島危機までもが予感されるようになり対応上、中洲士郎はガラスアンプルの自作と新型発光体の開発を目標に据えたのです。

これを士郎は「ぎょぎょライト作戦」と名付けて行動を開始します。

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