大島東市の話(その6)

会社創立1年目の1980年2月東京晴海の国際見本市会場です。今回は自前のブースを持った東京釣具ショーで華やかにぎょぎょライトの発表です。

その人混みの中で今でも冷や汗の物語がここで始まりました。

その男、身長190cm近く堂々たる躯体 、大きな額が薄くなった頭髪の中に広がり眉は反り上がり眼光鋭く鼻はギリシャ彫刻に見る少しだが鷲鼻、唇は赤味を帯び少し薄いが品良い笑顔を作っております。   まさに歌舞伎役者のようでした。                          未だ嘗てこれ程立派な容貌の男に会ったことがありません。

付き添いの女性は黒いスカートに真っ白のブラウス、髪は清楚に結わえられております。

小柄だがいかにも知的な美人です。その彼女からその男青山への呼びかけは「先生」でした。この二人の出現で一瞬観客が静まり返えるのは正に後に知る詩劇の舞台です。

Mデパート山本部長の仲介などの通り一遍の話題の後、(既に予備情報は彼のもとに入っていたようで)現在の大島との販売契約に及び士郎差し出す大島と栗本の確約書を一読します。

彼は答えました。

「どうして折角の有望な事業を起こすのに端(はした)金でこんな契約を交わしたのか。この契約書がある限り貴方の会社は生き残れない」と。

そう宣託を残すと長居は無用とばかりに会場を後にしてしまいました。

名刺には「株式会社バルジン 代表取締役青山功夫」とあります。

「よくハッキリともの言う人だ」と感心すると同時に、この20分ほどの立ち話の間彼の表情は能面の様に変わらなかったのが強く印象に残ったのです。

さて読者諸君、世には色んな人がいるものですね。我々凡人からすると遂に彼の人生の命題が(どうしてそんな事でそんなに悩むのか)理解出来ないことがあります。

彼青山功夫は業(ごう)深き人の性(さが)を凝視して苦悩を背負って歩き続ける自らを「シジフォスの再来」だと信じているようでした。だから彼の事を軽々しくコメント出来ないのです。

しかし中洲士郎は図らずしもその超人に出会い戦ったのです。この第3の危機の記述は難しい。若しかしたら近い将来日本の偉大な知性人として青山功夫は蘇るかもしれないのです。(但し中洲士郎にペンの力が有ればの話ですが)

ここではどうやって大島商会との因縁の契約問題を解決したかだけ記しておきます。「これなら命を失う」と勧告する医者なら命を救う手立てを知ってる筈ですから。

翌3月北九州市小倉の西日本総合展示場で九州釣り具見本市が開催されました。ここでは一応仲良く大島と一緒にブースに立ちケミホタルの宣伝をしました。問題が起こったのです。

大島のやつ自分の晴れの舞台を惚れた美人の嫁さんに自慢したくて彼女をブースに呼んでました。お昼の時間です。中洲士郎は何時も女性にはそれは礼儀正しく親切です。「奥さん。仕事は旦那様にお任せして一緒にコーヒー飲みに行きませんか?」と誘い出しました。結果的にはこれが大島の逆鱗に触れてしまったのです。

後日ご丁寧にも会社の全役員宛に告発状が届けられました。

内容は「中洲士郎は無礼な男、自分の家内をコーヒーに誘って誘惑した。(但しうちの嫁はんはそんな手には乗らんが)兎に角けしからん男だ。云々。即刻解任せよ」と息巻いています。面倒だが日曜日遠賀の工場に4人の仲間が集合して協議です。

告発状を手にした3人の役員笑うでもなく怒るでもなく例によって何の発言もありません。「要するに大島ってのはそんな奴だ。しかし栗本との契約書取り返すまでは問題が続く。どうしたものかなあ・・」中洲独りため息をついたそんな時でした。

日曜日なのに電話のベルがジリジリと・・・。

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