サイリュームの話(その1)

さあそれでは諸君一緒にアメリカに渡って米国政府が門外不出とした化学発光の原液をせしめましょう。何事も為せば成る。成らねばイカサマして為そう。

1981年7月28日大韓航空機KE012便はソウルからアンカレッジ経由でロスへ向かっております。

行く手に地球の稜線がオレンジの弧を描き機体が徐々に高度を下げると夜のとばりが降り始めたロスの街並が美しい光の格子で輝いているのが目に入りました。午後9時40分士郎37歳になって遂に渡米の夢が実現したのです。

この時の大韓航空機は使い回しのオンボロで機内は移民で溢れかえりキムチの匂いと赤子の泣き声が夜通し続くエコノミーというより難民クラスと言うべき客席でした。しかし士郎は感激で震えが止まりません。それは未知の米国で始まる戦いの前の武者震いでありました。

 それでは先ず何故この時期米国行きを決心したのかをお話します。

会社には使える金が80万円しかありませんでしたが、これを全部持ち出しました。動機は会社があるうちにせめて一度でも憧れの米国を見ておこうと考えたのです。前の会社では遂に一度も海外に行かせて貰えませんでしたから。

釣具市場で人気が出てきた化学発光体に対して「あれは特許違反だから長くは続かない」などとの大手メーカーの声も聞こえてきます。

サイリュームから液を抜き取るのは問題になりそうな気配がありました。1979年だけで1万本80年には3万本もバラし81年には10万本の勢いです。

日本の突出した売り上げが米国ACC社の興味を引きます。

「自社製品から原料を取り出し製品を作り替える行為の法的問題」を半分面白がって検討始めたようであります。(危険な予感がします)

一方で日本のACC子会社CYJは奇妙な利益を生む日本化学発光の存在を本国に隠そうとしていて士郎が米国と直接原液交渉するのを禁じております。従って今回の中洲の渡米は危険な賭けでした。

直に我々と同様の手口でサイリュームをバラし類似品が出回るでしょう。CYJが中洲だけを応援するという保証はありません。現にこの2月、東京のみやこ釣具商会から「ちびピカ」の名前でコピー品が釣り具市場に出現しこれを退治しようと戦っている最中です。

色んな騒動の中で2年目の日本化学発光は釣り具市場での売り上げを急拡大させます。矢張り大島商会依存は危険ですので釣り具以外にも販路を拡大する必要があります。そこで東京進出を決めました。金も社員もないので何処かの事務所に間借りしようと都内を歩きます。虫のいい話だから何処からも色よい返事が貰えません。そして結局渋谷の青山の会社バルジンに吸い寄せられたのです。

山手線沿いの粗末な3階建の山手石炭ビルです。2階の事務所には中年の男1人と女性2人それに居候が1人都合5名。3階は工場になっております。ものの5分間の話で間借りの話がまとまりました。社長の青山の部屋はフロアの半分を占めグルリ取り巻いた書棚には裁判の判例集が並び大きな机に背もたれの付いた回転椅子です。みんな青山を先生と呼びます。仕方なく中洲も先生と呼ぶことにしました。(雰囲気から誰でも間違いなく青山を弁護士先生と誤解する筈です)

銀座の英國屋の高級スーツに身を包む青山教祖に合わせて皆しっかり身だしなみを整えております。ここでは気高い精神性に縁どられた文藝の世界が主で「やっぱりお金」の卑しい現実世界はドアの向こうに隠されています。会話には洒落たウイットが常で毎日の食事は2人の女性が甲斐甲斐しく準備します。アルコールが全くない何事につけストイックな不思議な舞台です。終業は大抵夜10時です。

世故に長けた者ならばこれを見て即座にいかさま師の集団と断じたでしょうが未だ駆け出しの商売人中洲士郎は怪しむより崇高な世界にすぐに引き込まれました。破産者の青山集団のアジトに中洲鴨がネギを背負ってノコノコやって来て親しい仲間に加わったのです。

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