中洲若子の話(その2)

天王寺詣りの話の発端はこういう事でした。

若子が中洲士郎を生んで暫く西中洲で芸妓をやっていた事、三味線や小唄が下手で難儀していたようだと冊子「若子」に書きました。だが20年仕えた旦那の山田実も逝って士郎も就職して中洲赤ひょうたんを独りで切り盛りする孤独の若子に嫌だった芸事への郷愁が湧いたのでしょうか。その当時も芸事の中で「生け花」だけは天職と念じ岩田屋デパートはじめ天神界隈のウインドウを飾っていたが息子も嫁もそれを褒めてはくれぬ侘しさの中、幽玄のお謡いの世界に眼を開かされたのでしょう。

それも観世流家元直伝で儲けた金を注ぎ込みます。しかしそもそも中洲一族に美声のDNAは皆無。とても聞けるものじゃないのに能舞台にでる厚かましい若子を軽蔑しておりました。

だが中洲士郎は2013年11月14日若子が逝って2日の間、一人で若子に添い寝した時、怖い思いをしたのです。妻の老婆(ラオポ)中州タエが前もって用意していた旅立ちの衣装を送り人が若子にまとわせ死化粧をするうちに段々畏怖を覚えてきました。

そう言えば中洲若子は士郎幼少の頃から毎日ビシリと着物を着こなしておりました。姿見に映る自分の姿を厳しく吟味していたようです。

長い間ベッドの上で身動きままならぬ生活から解き放たれて老婆(ラオポ)が用意した七草模様の着物を羽織ると夢の中で鏡に映る自分の姿を吟味し始めたのでしょうか。老いてボケ顏だった筈の若子が威厳に満ちてまさに謡い始めるのかと錯覚する佇まいに変じたのです。

旅立つ若子の脳裏には山田実との葛藤の日々、死ぬ前に東京から遥々八幡にまでやって来た独り歩行も儘ならぬ老いた亥蔵の魂との再会を正装して謡っているようでした。それで少しだけ能「弱法師」の物語が気になっていたのです。

最近になって稀代の才女で異才の白洲次郎の妻白州正子の書を読みました。そこには友枝喜久夫の「弱法師」の仕舞の感動が綴られており、やっとこの歳になって謡とお仕舞いの奥深さを教えて貰ったわけです。それでNHKのDVDも買って幾度か観てそれで若子の下手な謡を思い出すことになりました。

次回は中洲士郎の父親辰野亥蔵が「弱法師」の父道俊さながら老いて最後に母子に逢いにはるばる旅して来たお話し聞いてください。

若子の謡を1度でも聴いて褒めてやればよかったなあ。今は処分してしまいましたが樟脳の匂いのする若子が残した夥しい和綴じの観世流の謡本の中に弱法師の表題を観た気がします。

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