中洲若子の話(その4)

賑やかな叙勲のお祝いの席でした。参加者は皆植田教室で非鉄冶金を学んだ卒業生100名程です。挨拶も終わって先輩後輩での歓談が始まりました。傍の同窓の石橋君が高校の先輩を見つけ挨拶して戻ります。頭が薄くなった恰幅のいい人でした。聞くとはなしに「偉い人みたいだね」の問いに石橋が名刺を見せました。

一瞬衝撃が走ります。父親の会社だった八幡枝光のY工業常務取締役工場長とありました。

逡巡の後、意を決してその人の前に出ました。中洲士郎の名刺を差し出して。「つかぬことをお伺いしますが・・・。先輩のお会社にむか~し御在社された辰野亥蔵さんご存知ではありませんか?」

「・・・・」

「うちのグループ会社の大御所ですから毎年正月には池袋のご自宅にご挨拶にお伺いします。ところで辰野さんとはどんなご関係で?」

突差に「うちの親者が生前Y工業の辰野社長様に大変お世話になった」と申しておりましたので辰野さんの近況をお伺いする次第です。

安心したようにしかしふと考え込むような目で中洲を見つめ語り始めました。中洲に答えるのじゃなくて役目を帯びてモノローグするようでした。

「今年お亡くなりになられました」

一瞬衝撃が走ります。続いて

もう少しで3世紀に渡って100歳を生きられたところでした。誰もが残念に思いました。

ご葬儀の後ご子息のサダメさんにお亡くなりになられた事情をお伺いしました。そうそうサダメさんは早稲田を出てずっと大学で教鞭をとられており申されるには、「父はその日も碁会所に顔を出し戻って、少し疲れたとコタツに入って暫くして静かに息を引き取りました」と。「それで抱え上げると父親の軽さにビックリした」と仰っていました。辰野さんには数年前大変驚かされた事がありましたよ。

「もうこれが最後になるので枝光に来たい」と。それで皆んなでお迎えして歓迎の宴を開きました。なんとあの年でそれもたった独りで新幹線で来られたのです。聞くと同伴予定のお供と駅ではぐれて切符だけ握って来られたのです。老いた辰野さんの横でご機嫌を伺いました。すると「今回枝光に参ったのは実はどうしても最後に会っておきたい母子が博多にいてねえ。だがもう博多までは無理だから諦めよう」と。翌日新幹線で独りで東京に戻られましたね。

初対面のこの方がどういう訳かお勤めを果たされるような話し方で話し終えられました。

「左様でしたか。それはご苦労様でした。お話しありがとう御座いました」一礼して席に戻ると石橋君「僕のあの先輩と知り合いだっの?」「いやたまたまね」

年が明けて母親若子が「辰野さん死にんしゃったよ」「俺も知っとるが。どうして知ったの?」「年賀状出しといたら」「またどうして年賀状なんか出すんや。ご迷惑かけるやろうが」「・・・・」「奥さんからの年賀の返信にねえ・・」

数年前我々二人に逢いに枝光まで来ていたことを若子に話してやればよかったと悔いております。

飯碗だけが残りました。

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