中洲若子の話(その5)

ささやかな葬儀でした。若子の妹弟と士郎の家族だけ20名ほどで若子を見送りました。見栄っ張りの若子のためにもっと派手にやれば良かったのですが。

それでこのブログを借り弔辞を記して若子に送ろうと思うのです。

先ず若子がこの世に別れを告げた日のことから。

士郎沖縄の出張から戻り心配しながらホームのベッドに駆けつけたときは弱々しくも若子はまだ生きておりました。「生きとるや?」問いに頷きます。何時ものように顔と背中と足をマッサージして手を握ると返えす力が弱まっていました。数ヶ月の間、胃ろうで食べ物が何も喉を通っていないのが不憫です。それで士郎手製のチェリージャムのソースを少し口に含ませて甘さの思い出を呼び覚まさせます。コックリと一飲みするが眼は虚ろでした。

今思えば3日3晩士郎の戻りを待って生きていたのです。出勤する士郎を幾分正気を取り戻して確かに見ていました。それが2時間ほどしてホーム職員からの通報で運ばれた病室に駆けつけたときは動かない屍になっていたのです。

顔は別れた時のまんまです。職員の報告では士郎が帰り何時ものようにチューブから食事を流し込みました。気持ちよくトイレもしてお風呂の日だったので浴室で職員2人で車椅子のままお湯に入れました。気持ちよさそうにお湯に当たり終えたところで急にうなだれてしまったのです。それで大急ぎで救急車を読んで隣接の済生会病院に搬入したが既にこと切れていたとの話でした。若い医者は若子の死亡時刻は息子が看取ったとして午後2時としました。

安らかに寝たままで今朝との違いは体が動かないだけ。それが「死んじまった若子」に変わっていたのです。人間って心臓が止まったその一瞬をもって現世から来世に移るのだろうかしら。若子が死んで2日間添い寝をしたと申しました。よ~く観察しておりますと顔の血管のむくみが引いて表情が変わって参ります。そして突然素顔を表したのです。弱々しいお人好しのそれとも「赤ひょうたん」を潰して借財にビクビクしている顔じゃありません。昔の剣気で時に意地悪い丙寅の女に変わりただじっと目を瞑った戦う女の顔でした。「私が死んだら士郎が嘆くのが辛い」などいつか漏らした得意のイカサマ言葉でも吐きそうな顔です。

この変化を見るうちに士郎は無性に嬉しくなって「いいぞ、その生きざまやよし。また会おう」と告げたくなりました。後々人が「また中洲のホラだろう」と言うのを封じるために証拠写真に収めております。

お通夜って言うのはそう言うことじゃないでしょうか。なきがらは肉体は死んでも意識は夢見ている状態じゃないかと思うんです。若子が死んで2日の間添い寝してやれたのはいいことでした。

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