アイパオの話(その5)

大地震から2晩経った3月13日の朝、前夜のコンビニの前でタクシーを拾い王子まで走って列車に乗り羽田空港から何事もなかったように自宅に戻りました。     丸2日東北で音信不通でしたが幸いと言うべきか誰も彼も中洲は無事だと確信していました。変なところで信用が厚いのです。

さてそもそも何で中洲はあの時第2原発くんだりまで出掛けたのでしょう。大層な出来事も元を辿れば他愛ない事からが多いものですね。然し他愛ないことから事件が起こりそして未来に大きく作用することが有るのです。笑わないで下さいね。事の次第はこうなんです。

先ず2010年12月20日東京は神田に本社がある化学会社を訪れました。この会社はゼラチンが得意でS化学に特殊消臭剤を納めて一世風靡しましたが茨城に大きな工場を作ってから業績が悪化、IPOを断念した投資会社から売却される憂き目に遭っておりました。

中洲は茨城に物流拠点でもこさえようかと軽い気持ちで訪問したのですが既に売却先は決まっておりました。それが受付でねえ。女子社員のM嬢が愛想が良くて目と目でチカチカやりました。

中洲得意のイカサマでひょんな具合に売却先がルミカに逆転してさあ大変、3億円の買い物ですよ。後にも引けず会社の役員達をなだめすかして契約、3月11日午前神田の本社で調印式やって折角だからと言うので福島工場に挨拶訪問となったのです。富岡駅から迎えの車で第2原発エネルギー館の前を通り過ぎるとき少し胸騒ぎを覚えました。

そして5年後放射能汚染でクローズされたその福島工場を再訪しました。工場事務室の黒板には「3月11日午前11時中洲ご来社予定」と記され柱時計は2時46分を指して止まっております。床には書類が散らかりコピー機などが倒れており中洲が事務所を訪問したそのままが記念館のように残されておりました。

序でにお話ししておきましょう。第一原発のメルトダウンで富岡町は立ち入り禁止となりここの工場を所有したルミカには毎年大きな額の補償金が支払われました。若しもK化学を買収しなければ2012年からの経常赤字は避けられず若しも契約が3月11日でなければ地震に遭遇する事もなくそして何よりも「アイパオ」は生まれなかったでしょう。アイパオはまさに数奇な運命の産物なのです。但しこれがケミホタルみたいな天才児であればの話ですが。

帰宅して夜テレビでは東電の第一原発事故で大騒ぎです。現場から生還した中洲の目には醜い世界に映りました。もしも自分が東電の社長だったらここでは出来ることは一つしか残っていないと思いました。

津波で亡くなった15000人もの方達は自分の死に方を選べなかったのです。

一日も早く東北へ戻らなきゃと気が焦ります。

2ヶ月後の被災地

 

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