中洲若子の話(その11)

まずお断りします。高橋トクシン氏はあの明治の元勲高橋是清の本妻でない血筋を引かれる方でした。高橋是清に認知されていないひ孫に当たっておられます。
たまたま是清と姓が一致しますのは彼の父親は高橋敏雄、若松の任侠大親分吉田磯吉の書生から京大を出て検事になった人です。

一方亭のルーツを辿りますと人物では伊藤博文、舞台は下関の春帆楼に行き着きました。

[以下春帆楼本店のホームページから引用]

春帆楼はじまりの物語「玄洋とみち」

春帆楼の歴史は、古くは江戸時代まで遡ります。

江戸時代の末、豊中中津(大分県)奥平藩の御殿医だった蘭医・藤野玄洋は、自由な研究をするために御殿医を辞し、下関の阿弥陀寺町(現在地)で医院を開きました。専門は眼科でしたが、長期療養患者のために薬湯風呂や娯楽休憩棟を造り、一献を所望する患者には妻・みちが手料理を供しました。

玄洋がこの地を選んだのは、隣接していた本陣・伊藤家の招きによるといわれます。当時の伊藤家の当主・伊藤九三は、坂本龍馬を物心両面で支援したことでも知られる豪商です。

明治10年(1877)、玄洋は「神仏分離令」によって廃寺となった阿弥陀寺の方丈跡を買い取り、新たに「月波楼医院」を開業します。春帆楼は玄洋没後の明治14~15年頃、伊藤博文の勧めによってみちがこの医院を改装し、割烹旅館を開いたことに始まります。

伊藤博文が名づけた春帆楼の名

馬関と呼ばれていた下関は、北前航路の要衝として「西の浪速」と称されるほどの活況を呈していました。下関は、討幕をめざす長州藩の拠点でもあり、奇兵隊や諸隊の隊医(軍医)として長州戦争に参加した玄洋の人柄に惹かれて、伊藤博文、高杉晋作、山縣有朋など、維新の志士たちも頻繁に出入りしたといわれます。

「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し…」と伊藤博文公が後に高杉晋作顕彰碑(吉田・東行庵)で讃えた晋作が組織した奇兵隊の本拠地が阿弥陀時(現・赤間神宮)であり、その跡地に建ったのが現在の春帆楼です。

春帆楼という屋号は、春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様から、伊藤博文が名付けました。

ふぐ解禁、ふぐ料理公許第一号店に

明治20年(1887)の暮れ、当時初代内閣総理大臣を務めていた伊藤博文公が春帆楼に宿泊した折、海は大時化でまったく漁がなく、困り果てたみちは打ち首覚悟で禁制だったふぐを御膳に出しました。

豊臣秀吉以来の河豚禁食令は当時まで引き継がれ、ふぐ中毒が増加するなか、法律にも「河豚食ふ者は拘置科料に処す」と定められていました。しかし禁令は表向きで、下関の庶民は昔からふぐを食していました。

若き日、高杉晋作らと食べてその味を知っていた伊藤公は、初めてのような顔をして「こりゃあ美味い」と賞賛。翌明治21年(1888)には、当時の山口県令(知事)原保太郎に命じて禁を解かせ、春帆楼はふぐ料理公許第一号として広く知られるようになりました。

歴史に刻まれる夢舞台、日清講和会議

明治維新後、急速に近代化を進めた日本は朝鮮半島の権益を巡って清国(中国)と対立を深め、明治27年(1894)8月、甲午農民戦争(東学党)の乱をきっかけに開戦しました。

日本軍が平壌、黄海で勝利し、遼東半島を制圧した戦況を受け、清国は講和を打診してきます。会議の開催地は、長崎、広島などが候補に挙がりましたが、一週間前に伊藤博文が「下関の春帆楼で」と発表。

明治28年(1895)3月19日、総勢百人を超える清国の使節団を乗せた船が亀山八幡宮沖に到着しました。日本全権弁理大臣は伊藤博文と陸奥宗光、清国講和全権大臣李鴻章を主軸とする両国代表十一名が臨みました。講和会議は、当時の春帆楼の二階大広間を会場に繰り返し開かれ、4月17日、日清講和条約(下関条約)が締結されました。

下関が講和会議の地に選ばれたのは、日本の軍事力を誇示するために最適だったからです。会議の終盤、増派された日本の軍艦が遼東半島をめざして関門海峡を次々と通過する光景は清国使節団に脅威を与え、交渉は日本のペースで展開したといわれます。

ご覧のように日本で一番忙しい伊藤博文公が異常な程「春帆楼」に私的な情熱を傾けます。実は彼は稀代の色事師だったのです。しかめっ面しい政界の表舞台とは違って裏では飲めや唄えの艶な男女の世界が隠されていました。これは大変面白い商品開発の題材です。誰かが傑作に仕上げてくれるのを期待して精々さわりを描いてみます。どうぞ間違いのところは中洲のイカサマに免じてご容赦下さい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください