中洲若子の話(その9)

1997年の暮れに実父辰野亥蔵の死を偶然知ったいきさつはお話ししました。そのあと亥蔵との何度かの邂逅を思い浮かべるうちに母親若子と亥蔵の出会いと別れを知りたくなったのです。

それで若子に尋ねました。「置屋の吉良に奉公に出てからどうしたと?」「いっぽうていで働いた。何か小説でも書くとね」若子がそれだけポツリと答えました。今思い返せば若子には一度も奉公先のことや仕えた旦那の事を尋ねた事が有りませんでした。ただ時折若子は書き綴った日記を読み返しては昔の想いに耽っております。誰かに打ち明けたかったのかも知れません。

長い間「いっぽうてい」と記したメモが残りました。2010年5月若子は両膝の手術後歩行が困難となって車椅子生活に、更には脳梗塞が進行して認知症がひどくなってきました。

天気が良ければホンダCRZで大濠公園に行き車椅子を押します。和白のサニーで弁当を選んでは湖畔で一緒に食事をすることもありました。若子はこのところいつも優しい顔をして殆ど喋りません。

大濠公園で車椅子の若子

一緒に弁当食べて

そんな若子を見ていると「もうそんなに永くはない。若子の人生を振り返らなくてはならない」と。しかしもはや若子の昔の記憶を手繰り寄せるのは難しい状態です。

それで若子の親弟妹達が映った昔の写真を拡大し繰り返し指先で追いながら記憶の回復を図りました。

だが「この僕誰かわかるやろう?」その問いに笑って「うん精一」「違うあんたの息子の士郎や」何度言っても彼女の頭には弟精一しかないのです。

今思えば精一に深い思いがあったのでしょう。精一がアル中で生活が破綻した時お金の面倒を見てやらなかったのを悔いているのでしょうか。士郎の辛い幼児期精一は本当に優しい叔父でした。いつか叔父精一の物語をして彼ら姉弟の魂を慰めようと思います。

若子の弟精一と中洲士郎

そんな訳で若子に昔のことを聞き出すには時既に遅かったのです。

仕方なく手始めにネットでメモの「いっぽうてい」を探してみました。

それは「一方亭」と綴り昔博多で栄えた料亭であることがやっと分かりました。終戦後米軍に撤収されて焼失したとの説明だけが絵葉書記念館に残されておりました。

その後も時折ネットを探っておりましたら「しょうき家一方亭」という変わった名前の居酒屋がヒットしたのです。

1年程経った2011年5月のこと中洲士郎は会社の若造の池山治行と新入女子社員を連れてやっとの事でこの店の暖簾をくぐりました。

  

 

アイロッドの話(その5)

11月14日とうとう幕張でインタービー2018開幕しました。若い連中に責任感が育ってくると命令系統に不協和音が起こります。「責任者は俺だ。俺の言うことを聞け」と暴君中洲に事態は悪化。それもこれも原因は皆んな開発の遅れです。

カメラの防水さえ確実に出来ればモニター受注は受けられます。その中で商品の完成度を高めて行けば「開発費を抑えて巨大なBi見逃サーズの市場をゲット」出来るのです。

高精度の360°防水カメラを離れた場所からの簡単操作で録画出来るキットを安価に提供するなら各種現場の問題解決に大きく貢献します。「お客様は本当に役に立つならあまり見てくれには拘りません」と中洲が自説を繰り替えしても若い連中は納得しません。かと言って彼らは技術問題解決には腰が引けるのです。

防水で頭を抱えるヒメノさんと2人京浜幕張駅そばの安くて不味い居酒屋で飲んでグチりました。直ぐにでも深圳の例のポリウレタン加工の会社に行って泣きつかんといけません。開発の胸突き八丁でずね。

「ねえヒメノさん。これさえ解決できれば次は360°IPカメラで水深100m。そうしたらアイパオやろうよ」結局1年間同じこと言ってます。

若い連中のデザインの感性は抜群。だが技術開発には逃げ腰です。

陽射しの中でタブレットを操作したい。要求にシャープに応えたタケウチ君の作品。

大連のジンユイ社長のプッシュで3日で試作させた収納ケース兼暗視箱

中洲若子の話(その8)

母親若子の命日に少し人の出生について思いました。人がこの世に不幸をまとって生まれて来ることについてです。4歳の頃母親が芸妓に働きに出て預けられた祖母の家での生活を思い出します。家の裏手からはいつもアイゴー!アイゴー!という悲痛な泣き声が絶えることがありませんでした。そしてそこは「朝鮮人部落だ」との大人達の説明。更に祖母は「朝鮮人部落」よりももっと酷い世界がある。この吉塚のドブ川の向こうの果てに部落があってエタヒニンが住んでいると。それに比べれば今の自分達の世界は天国みたいな物だと教えるのです。

 娘を置屋に売り飛ばすのって不幸のうちじゃないと祖母は自分に言い聞かせていたのでしょうか。娘の稼ぎに10人の生活を依存してもその娘の息子士郎にはダゴ汁が笑顔で届くことはありません。そんな時でも自分の家の先に部落があって「恐ろしい人たち」が住んでいるとの怯えが空腹に勝るのです。

博多の那珂川のほとりに清川町というところがあって昔花街として栄えました。専ら女郎として売られた貧しい子女達を相手の売春宿が軒を並べ今でもその名残があります。どなたの意図かロータリーの真ん中に丸い石組みが残されております。人呼んで女郎井戸。これは身ごもったり病に侵されたり世をはかなんだ少女達が身投げをした井戸だと。

ジェンダーが本当に悲惨なのは自分達よりもっと酷い世界があることでいくばくか安堵し、少しでも上級の性差別の社会に入りたいと願うことかも知れません。中洲若子も自分は女郎じゃない芸妓なんだと自分を慰めそれでも己の身分を蔑みながらせめて京都の舞妓に憧れたのでしょう。

こんな若子の写真を誰が撮ったのでしょう。

人の世の幸せも不幸も相対的なものであるようです。しかし絶対的な不幸にも出会います。

東北大震災救援でいくつか悲しい話に出くわしました。その一つが2011年5月福島県の大槌町でアイパオを組み立てていた時の事です。中洲の側に若いご婦人が寄ってきて呟くように

「この前の津波で5歳の息子を亡くしました。津波が迫っているというので皆んなで商店街を走って逃げておりました。ところが息子がねえ・・。カブト虫の幼虫を家に取りに戻ってそのまま津波にさらわれてしまったのですよ」と。

その坊やの年頃、中洲もヤゴ(トンボの幼虫)を飼っていてそりゃ大切にしておりました。やはりその子と同じく家にヤゴを救いに取りに帰えるだろうなと思います。瓶の中で汚い草にしがみ付いて生きているゴミのようなヤゴでした。

非常時の中で大人は決してあの小さな暖かい子供の手を握りしめて離してはいけませんね。老いた若子の手をもっとしっかり握りしめてやりたかったと命日に思います。

中洲若子の話(その7)

「Bi見逃サーズ」未完成のまま幕張メッセでの見本市インタービー出展で東京に来ております。

今日は若子の命日11月14日です。2013年に死んでしまってもう5年も経ったのです。それで今日は少し若子のことを思い出して弔ってやることにします。

中洲若子は大正 15 年 4 月 10 日に北九州若松の貧乏寺の三男坊と豊前の私生児の間で第一子として生まれました。その若子には 3 人の弟と 5 人の妹から「大きいネーチャン」と呼ばれて彼らの飢えた黄色いくちばしに食を探し運ぶ苦労鳥の運命が待っていたのです。その役割を死ぬまで担い昭和の時代を駆け抜けて行きました。

 「若子には尋常小学校出してやったから、そろそろ奉公にでも出てくれればいいが。女学校なんかにゃやれやしない」深夜父母の会話が襖越しに聞こえました。

第2次世界大戦が始まった年だったのでしょう。軍靴の音が密かに漏れ響き職業軍人と言うよりも口減らし二等兵の祖父も演習に駆り出されておりました。

祖父の写真らしい

狭い部屋に寝乱れている4人の妹と弟達に目をやり若子は決意します。翌朝若子は両親に「奉公に出ます」と告げました。女学校進学など夢に過ぎなかったのです。

15歳になると直ぐに母に連れられて福岡市の東の歓楽街千代町の置屋「吉良」に奉公に上がりました。置屋は貧しい家の特に器量の良い娘を事実上買取り将来売れっ子芸妓になるように躾けもするが掃除洗濯炊事それに主人の背中洗いなど女中代わりに使います。

芸妓に出し売れっ子ともなれば大きな移籍料が手に入る大切な商品ですから現代のようなセクハラの類いは案外少なかったのかもしれません。

若子が奉公に出た頃の写真でしょう。

置屋では娘を養女として親元から譲り受けることも多く若子も吉良から要請されましたが若子の父親は断わりました。若子の母親は家計の遣り繰りが下手で夫婦に諍いが絶えなかったが料理の腕は確か、食事は質素でも美味でした。

しかし吉良の家でありついた残り飯は糸を引くことが多く若子はそれが耐えられず一度は家に泣いて帰りました。「何でもするから家に置いてくれ」と。勿論そんな願いが受け入れられる筈はありません。

若子と士郎が生涯美味いものにこだわり続けるのはこの吉良の食事の恨みからでしょうか。以上のような話を若子から時々聞かされておりました。

そしてあの若子の店「赤ひょうたん」を再開して弔い客から意外な話を聞くことになりました。

赤ひょうたんの数件先の小料理店で仲居さんをやってる年を召した着物姿の婦人の話です。

「若子さんは本当に綺麗で品のいい人でした。小さい時から苦労されてね。私も少しだけこのお店で働かせて貰いました。優しい女将さんでしたよ」

「あんな時代ですから、まあ相応の苦労はしたでしょうね」

「若子さんは若い時京都で舞妓さんやってたそうですね」

「そんなこと言ってましたか。舞妓じゃないが訳あって一時中洲の芸妓、そう馬賊芸者をやってた筈ですよ」

なるほど中洲若子、生家貧しくその容貌を買われて京都は先斗町の舞妓だったと詐称していた訳か。いや若しかしたらどうせ奉公に出されるならば噂に聞く京都の舞妓に憧れていたのかも知れません。それに短い間でも中洲で芸妓をやってたとなるとやはり世間には冷たいものがあって辛い思いをしたのでしょう。

だがおっ母んに芸妓やってもらわねば中州士郎この世に 3 年しか生き永らえておらんのです。

なにぶんにも若子と確かな話をしていないので誤っているかもしれませんが中洲士郎がかすかな記憶を辿ると話はこうなります。お聞きください。

アイパオの話(その19)

昨日10日は爽やかな日本の秋晴れの中一路由布農園へ。幸せを噛み締めました。

農園では新沢さんが育てた里芋、生姜、そして菌を打ち込んで1年半遂に立派な椎茸が薄暗いアイパオの中で大きな傘を付けていました。

老婆(ラオポ)の渋柿。去年は収穫が早すぎたと老婆(ラオポ)に散々文句言われたので今年はまだしっかり熟らしております。

後ろがアイパオの椎茸小屋です。

大きな立派な椎茸にもうビックリ。家に持ち帰り一個だけ老婆(ラオポ)とバタ焼きして食べました。もう悦楽でした。アイパオ様様です。

12日大阪のお客様に届けます。

桑野さん宅の見事な紅葉。これを見て牛小屋を断念。人間の住む家に変更しました。

リックの家の紅葉。一昨年のように青が入った七色にはなりませんでした。

モグニゲル

モグラが退散したのは5m四方位の狭い範囲です。次回更に詳しく効果を調べます。

今日は足早に由布農園とアイパオの報告でした。

アイロッドの話(その4)

「父ちゃんアイロッドやってもカメラに手を出しちゃいかんよ」プロでカメラを回している次女に釘を刺されておりました。それがこの3年カメラで深みにはまっているのです。

開発の狙いはいつも未だ誰~れも気がついていない宝の山を掘り当てることです。カメラが危ないのはライフがすごく短かく一つのモデルが大抵半年で姿を消すからです。2011年GOPRO登場。(パチモノ溢れる)。2014年INSTA登場最初はリコーの360°シータをコピーしましたが2014年insta nano上市。これは中洲提案のUSBカメラでした。(これもパチモノが溢れる)。中洲の次の狙い目は4K360°IPカメラです。

どうしてこうも簡単にパチモノが出現するのでしょう。それは深圳の電気街の華強北に秘密が隠されているようです。パソコンと同じくスポーツカメラなら部品は全部揃います。頼めば直ぐにカタログも印刷してくれるそうです。電子機器では同じ基盤を使っているのでブランド品と性能はほぼ同じで上代は10分の1迄下がります。だからカメラのビジネスはもはや成り立たないらしい。

そうでしょうか。それらパチモノを色々揃えて新しい概念の製品を安く作り上げるのはどうでしょう。更にBiRod専用のパチモノをルミカがこさえればどうなりましょう。Bi見逃サーズは他人が真似し難いパチモノだから独創だと考えます。

今回この「Bi見逃サーズ」上市したら次の獲物は360°POE-IP-4Kカメラです。国産の同クラスなら30万円以上はします。価格は2万円台でルミカ独自の特殊な防水機能を備えます。

BiRod事業を始めて4年中国の深圳に行く機会が増えて時代と技術の変化に目を見張ります。スポーツカメラのGOPROが一世風靡している間に素人でもカメラを組み立てて売る時代になったのです。5年でトヨタはなくなると豊田社長が言ってるのはそう言う事です。トヨタの電気自動車のパチモノが十分の1で売られる時代が来ます。パソコンやカメラと同じく単品販売じゃなく個人事業主が真似できないコンテンツを生み出す事、それが豊田社長が仰る事でしょう。

新幹線深圳駅。2年で開通。

ルミカの次のカメラは12V有線LAN対応ですから水中でも100m離れて操作可能。そうなると50mプールの水底を世界記録のラップタイムでカメラ移動させることが出来るのです。それも一式30万円で。これは中洲のオリジナルアイデアですが実現できましょうか。中国が凄いのは国も後押ししてビジネスプランにファンドが直ぐに立ち上がり10億円位と優秀なエンジニアが結集するところです。INSTAがそうでして中洲も簡単に行けない敷居の高い会社になってしまいました

だからやっぱり次女の言うこと聞く訳には参りません。今日は変に理屈っぽい話でごめんなさい。明日はアイパオの美味しい便りを届けますね。

アイロッドの話(その3)

開発には緊張が付き物。ひとつの開発テーマを追うと次々に問題が起こり問題解決の過程で又新たな開発テーマが吹き出します。もうキリがないから「お前は俺の最後のオンナ」とか言うくだらない歌に倣って「アイパオは俺の最後の開発」なんてキザなこと言っております。勿論新製品がヒットするかしないかは別の次元でして中洲のは悲しいかな大抵見込違いですが。

手許の数ある商品開発の中でBi見逃サーズは11月14日のインタービー見本市迄に完成し販売を開始しなきゃなりません。会社の相棒(アイロッド)達皆んな頑張っていますが遂にカメラの防水で暗礁に乗り上げてしまったのです。

防水と言う技術テーマには皆んな泣かされます。カメラの防水で成功したとこは皆無でしょう。15000円で360°完全防水カメラを市場に出そうと言うのですから専門家は一様に笑います。強力接着剤も有りますが処理に巧妙な技術を要するものは使えません。ここはジェル接着シールしかないと決め打ちして深圳に出張したのです。

11月2日、2年前に知り合ったその会社の工場にお邪魔しました。沢山の種類の接着シールを只でくれた上に工場を詳しく案内してくれたのでもう感激です。生産ラインを見ているうちに手元案件の幾つもが解決できそうです。透明エラストマーポリウレタンEPUと発光体を組み合わせるのです。商品開発では新素材の活用が決め手になるようです。

「空から瓦礫の中から水中から狙った獲物は見逃さない」そんな(中洲の)夢の製品「Bi見逃サーズ」発売間近で遂に挫折寸前。防水が成功しないのです。そもそも防水とは何か?何処かで迷路に入ってしまいました。一年ほど前の事、カメラをコンドームで包む案を思いつき色んなのをこっそりネットで買ってテストするも皆んなダメです。薄い、着色してある、それに形が悪い。相模護謨に行って頼んでもダメだろうと諦めたのです。そもそもコンドームの材料でダメなら新素材を探すべきでした。それがこの深圳の会社では新素材のEPUがあり少量の試作でも即座にOK。防水とは硬いものを柔らかいもので限りなく締め付ける事です。

現場を歩いて緊張しなきゃアドレナリンが出ない。出なければアイデアが湧かない。

即ち「開発は緊張だ」とおもいます。

ウチの深圳子会社の可愛いイー君も一緒です。カメラの防水処理の案件が終わると会議室で相手の材料と技術を利用できる新製品のブレストを行いました。際どい新製品が「光って膨れる逸物」です。これを中洲が中国語、英語、で説明しますがイー君だけキョトンとしています。「バカー・ペンダン」と言って彼の股ぐらを叩いてやっと理解させたら「そんな下らない商品有りかよ」とばかり中洲に侮蔑の目を向けるので一瞬ひるみました。

しかし相手側は喜んで「やりましょう」でした。次の光って膨れるパットもルミキャプチャーも行けそうです。矢張り商品開発は面白くて止められませんね。

アイロッドの話(その2)

息子が父親の高級一眼レフを見て「父さん。こんな高性能機どうせ使えないだろう」と言ってソニーデジカメと交換させられました。

ー実際一眼レフと言う奴は図体が大きく重いしボタンが一杯あって操作を覚えれません。だいたい日本の精密製品は高価で装備過剰ですねえ。デジカメも高級化して丁度WiFiが装備され始めていました。実は中洲はかなりメカオンチでサッパリ転送の意味が分からずに弄りました。「えっ!スマホでカメラが遠隔操作できるんだ。これだっ!雪庇1号に取り付けよう」名前もBiRod (Birds eye Rod)として売り出すことに。

7~8メートル上空から写真を撮るとかなり驚きです。じゃあ誰よりも先に名作をモノにしようと青森の弘前城の桜を撮ることにしました。2014年の春です。老婆(ラオポー)に「どうだ。あの有名な弘前城の桜を観に連れて行ってやろう」と誘い出しました。

何しろ長大竿を支えての花見、いやでも観光客の目をひきます。小道具入れもあるしタブレットでの操作もあって慣れなきゃ独りじゃ無理です。

我ながら惚れ惚れの傑作写真が沢山撮れました。三脚が付いてますので少し離れてスマホを見ながら自然な人物像を撮るのにも便利です。もちろん傑作は人が上空を見上げて口を開けている写真ですね。この弘前行でアイロッドの市場を確信しました。

東京駅でラオポーと別れます。一緒は面倒だし支店に用事もあるのでね。ところが別れ際「ありがとう。桜見に連れて行ってくれて」と小遣いをそれも10万円もくれましてね。完全にこちらの魂胆が見透かされておりました。

誰か銅像を見上げておりますね。

お陰でBiRodは年間2000本ほど売れてジンユイさんの友達の工場は喜んでいます。残念ながら雪庇1号は合計500本ほどで売れなくなってしまいました。だけど別れたあの佐々山親父の発明力は評価しなければなりません。

世の中自分の手が届かない所に誰しも不便を覚えます。脚立も危ない。水の中なら殆どお手上げ。僅かの物好きが物干し竿にカメラやハサミを括り付けて頑張りました。そこで「軽くて便利な長い道具を作れば!」これが発想ですね。「そうだ釣竿がある」これが着想。あの小娘の親爺は立派です。ここまで来たのですから。これからが構想企画設計製造そして新たな市場開発となるのですが。少なくともクランプを取り付けた継竿まで進んでいれば発明者としてBiRodもこの親爺にプレゼントしたのですけど。雪庇1号の事業化にも執拗さが不可欠だと思います。何より目標を共有する仲間が大切ですね。

アイロッドの話(その1)

「中っさん。聞いてよ。ウチの父親も困ったもんだ。自衛官退職して好きな事やってるけど最近発明に凝ってね。何かセッピ落としの道具をこさえて商品化したいと言って家族を煩わせるのよ」チンプンカンプンで事の次第を理解するのに時間がかかりました。「親父も」と言う言葉にカチンと来ましたが耳を貸すことに。

先ず彼女の故郷は青森で一浪して高校に入りどこか東京の私大を出て就職して辞めて独立してコンビニフィットネスをやってる事は知っております。その故郷の親父の話らしい。

セッピというのは漢字で雪庇。東北地方の降り積もる雪で特に年寄りが泣かされる。屋根の雪かきは大変な苦役です。 軒先で凍った大きな氷の塊を雪庇と言ってその雪庇落としは危険極まりないらしい。これを落とす為に毎冬幾人もの死傷者が出るとのこと。

そこでこの娘の親父が考案したのが8mの竿にロープを付けて軒先の氷を一気呵成に切り落とすものらしい。その名も「雪庇カッター」

生来の物好きの中洲。「よ~し。ひと肌脱ごう。自衛官だった親父の夢を叶えてやろう」と動きました。

早速中国は威海の釣竿メーカーに当たりますがいい返事がありません。釣竿は韓国企業が強く早くから山東省に進出しております。そこで中洲と同じ頃釣ビジネスを始めて一時は世界最大の釣竿メーカーとなったソヌーと言う会社を訪ねました。中国の青島に大きな工場を構えています。そこの金社長は大層な財を成して昔は貧相な青年だったのが今では風体も中洲より堂々としておりました。

釣竿と言うのは一般に延べ竿だからクランプ付きの丈夫な継竿は面倒で作ってくれません。それに釣り具は何処も斜陽産業で昔の開拓者精神は失せているようです。結局ソヌーにも体良く断られました。そこの金社長、折角訪ねて来た中洲を慰めて極上の韓国料理を馳走します。ブルコギ食べながら「雪庇カッターの開発を諦めるかなあ」と。

しかしあの小娘に「頼り甲斐のない奴」と見くびられるのも癪で大連ルミカのジンユイ社長に相談したのです。彼女は日本で最大手の釣り具量販店の社長室にいました。美人で日本人以上の大和撫子と評判を取っていましたので彼女が一声かけると男どもは直ぐに応じます。日本での留学生時代これも内モンゴルから来た同級生が強く相談に乗ってくれました。

そして僅か3ヶ月で雪庇1号が完成したのです。

青森の素寒貧のこのササヤマ親爺の為に皆さんが骨を折ってくれました。癪の種は独り有名になりたいこの親爺、地元のテレビや新聞に開発したルミカを隠して自分の自慢話ばかりです。

商品開発なら中洲士郎、次々とアイデアが湧いて雪庇カッターの完成度上げるように親父にアドバイスしますが舞い上がって聞く耳持ちません。開発マンと言うのは中洲も含めて皆んな我が強い人種のようです。この親父が分からないのは工場でラインを動かすのに年2~300本では話にならない、この10倍は売らないといけないという事でした。それが新商品開発で苦労するところです。

「何とか別の用途を開発しなきゃ」新規市場開発ですね。そんな時に中洲の長男が帰省したのです。

アイパオの話(その18)

最終第5戦は岩手県花巻市にある某大学オープンキャンパスのシャワールームです。

大学生達が大震災救援活動で頑張っています。ここではジャグジーを提供しました。学生たちはそりゃ楽しそうに手伝ってくれます。感じたのは自分たちの住まいを作るのは物凄く楽しいってことです。

上海の空ビの会社に格安で分けて貰ったジャグジー

以上が東北での都合9棟の救援用アイパオ設置の記録です。息巻いて救援活動なんかしましたが「果たしてあれは何だったのか」と自問自答しておりました。しかしこうして思い出して 皆様に記録を綴っておりますと少しは意味があったような気がして参りました。

人が喜ぶ姿を思い浮かべながら家を建てるのは一番楽しい仕事です。家というのはそして家のあるじとは本来そんな役割のものだなと感じた次第。だから素人が建てれる合理的なハウスキットがあるといい。これで東北作戦活動の報告を終えます。

この後も宗像大島の避難所や熊本震災救援施設にアイパオを提供しますが密かに狙ったブームは起こりませんでした。

東北転戦終えた翌年の暮れ、ここは江東区木場にあるバー・コルの止まり木。あの小生意気な娘ミキと被災者救援活動について議論しております。思うんですが女性と男性特に若い女性との討議は何かこう本質の部分で噛み合わないようです。

「なあ。あの瓦礫の中に風呂の水が流せないって馬鹿じゃないかな東北の人間って」「何よ。その差別的発言。当たり前でしょう。私だって髪や身体を洗った汚い水を地面を這って流すのって嫌よ」「だって時と場合を考えろよ。自然災害は戦争なのだ」

そう言うもんか娘ってものは。若い男には誰にでもデレデレする癖に親爺には手厳しい。ドン・キホーテにも宿屋で底意地の悪い3人の小娘に手酷い仕打ちを受けて落ち込む場面がありましたが。

戦争では責任ある命令指示系統がなければ敗戦と膨大な同胞の死が待ち受けます。そして敗北の認識と迅速な戦後処理が復活に不可欠。東日本大震災は日本の完全敗北。限りない復興浪費。そして虚無感。矢張り戦争には「備え」と賢い司令塔が要ります。

とにかく彼女の話は長い。夜中の2時3時迄の議論はへっちゃら。「難民も被災者も憫むのは止めろ。ビ・ジ・ネ・スの話をしなきゃ」その中洲の結論へこの娘を引き込もうと焦る親爺にその小娘ミキが突然運命的な話を持ちかけるのです。