中洲若子の話(余話その3)

「大連で見つけた一方亭の話が面白かった。続きが読みたい」と仰る一人の読者のお言葉に胸がそわそわしました。それで相棒と連れだって福岡市薬院の例のしょうき家の暖簾を再びくぐることに。

綺麗な女将さんと初めてカウンター越しにおしゃべりさせて頂きました。

包丁をにぎるイナせな料理人とはご夫婦でしょうか。素朴で憂いを含んだ眼差しで女将が聞き覚えのある「一方亭の話」をします。傍らの男は敢えて無関心を装い、子気味のいい包丁の音でお供をしております。中洲はボソボソと一方亭訪ね歩きのくだんの話をします。

高橋是清の隠し子の曽孫に当るこの店のオーナーは現在ベトナムで和食の店を展開されておられる由。先般この「しょうき家一方亭」から手を引き一方亭の名前を看板からおろされたとの事です。「来年にはこの店も再開発でたたむことになりそうです」と。いよいよ一方亭が博多の歴史の舞台から姿を消すのでしょうか。

身体に毒とは解りつつ「締めのラーメン」に正に逸品の「レモンラーメン」を頂ました。大名の「極み」のアゴ出汁ラーメンに勝る「福博一のラーメン」でした。「今夜は品切れのシジミラーメンをこの次は是非」と。

カウンター越しに女将が「一方亭に縁があるんですよ」とそっと差し出した瓢箪絵の湯呑み。断わって写真に収めました。その時は気付きませんでしたが先程アイパッドの写真集からその写真を取り出して観ると懐かしい名前が刻まれておりました。

「あの絵も一方亭に因んだものですよ。お客が描いてくれました」と女将が指差す先に。

もしかしたら一方亭を訪ね歩く「すき者」は中洲士郎だけじゃないのかも知れません。

星野焼源太窯(その4)

小学生時代、人生で最良の日々を共に過ごした仲間が又1人この世を去りました。

その仲間たちとは中学を出ると各々別の道を歩みますが社会に出て再会があってお互いの人生が糸を紡ぐ。その交友は何時もケレン味のない昔の小学生同士で別れる時は唯相手の元気を祈りあいます。

昨日永眠した財津君もその1人。福岡市赤坂門に友人と2人でテーラーを開いたので何時も彼にスーツを頼むようになりました。その店を閉じて一人で営業するようになってからは年に二度決まってルミカに来てくれました。いつも生地見本から適当に生地を選んでの発注です。時折採寸して貰いますが何時も「士郎は寸法がちっとも変わらんねえ」でした。「お陰で10年前のも着ているよ」「仕立てで7万円じゃ長く着られたら商売にならんよ」「そうか、小学校中学校の同級生を回っているのか。そりゃ効率がいいな」「崔朝栄なんか30万円位のをポンとオーダーしてくれてたな。キップのいい奴だった」「中洲若子の話」でヤクザ相手の金貸し業で若死にした「我らの歪んだ英雄」崔君の話をしました。中洲と違って大層気前のいい男の姿が浮かんで参ります。崔君は小学校時代の仲間には命がけで愛情を注ぐ男でしたから財津君にも気を使ったのでしょう。

その財津君はと言えば小学校の時から目元涼やかで少し高倉健の雰囲気を持つ真面目な本当の男前でした。それが2年ほど前会社にやって来た時帽子を被っておりまして、それを取ると下はつるっ禿げ。

「何事か?」の問いに「前立腺癌を患った」とのこと。何十年も細身でスーツをシャキッと着こなしていたのが太って少し苦しそうです。「士郎も採血のみのPSA検査で前立腺は検査できるからやっとけよ」とアドバイスくれました。

右が財津君。小学5年の時、名島で貝掘り。母親若子の妹安江のうちにお邪魔しました。左が関岡君。彼を早く見舞わなきゃ。幼い時のアルバムをめくると改めて幼友達との日々が迫って来ます。

それに服の事は任せっきりだった友人が居なくなって人生が少し面倒になりそうです。それにしても一度くらい気前よく10万円位のスーツをオーダーしとくべきでした。

まあ中洲のスーツは全部財津君がこさえたからこれを大事に着ればこれからは他所で新調しなくていいだろうが。                合掌

星野焼源太窯(その3)

大連行きのキャリーバッグに源太詩集「蛇苺」を忍ばせました。そこには「ほとほと困り果てていた少年時代」そして思春期の悶えに耐えられず放浪を続け「焼き物」と出会い、「火男」となって炎の中で土くれと詞を融合させる源太の格闘がありました。その2つのアートを確かに造形させた源太と中洲士郎は思春期のほんの一瞬に交錯します。小石原の同じ窯元で「想い」を共有していたのです。

思春期の苦悩を詩作と陶工に昇華させたのが源太だとすると放浪も挑戦も出来なかったのが中洲の忌まわしい思春期でした。思い起こすのも嫌だから封印していたのですが「蛇苺」を読むうちに「ほとほと困り果てていた」あの時代が少しいとおしくなって脳裡に浮かんで参ります。

源太が詩を詠む人なら、滑稽人間としての中洲に恥ずかしながらフワフワ浮かび出す他愛もないアブクの話をさせて下さい。ほんの少しだけ。

少年に共通する関心事と言えば犬や猫、鶏や雀、虫や魚たちです。孤独少年の中洲にはそれに色んな植物が加わりました。

ところが小学校も高学年になると異性の姿が気になって参ります。周りの目があるので彼等異体を一瞬盗み見します。それに対して女子の中には時折じっと表情を変えずにこちらの目を覗く子がいます。ドキッとして 目をそらしました。あの当時は「怪しい肢体を持つ」女子と個人的に言葉を交わすのは勿論、手を触れる機会などありません。今思えば女子の方が異性に関心が深かったのかもしれません。そして大人たちが固く閉ざす扉の向こうの男女の怪しい情交の世界を想像したのは中洲だけではなかったのでしょう。そんな少年時代に直情的に欲情を煽るのが路地裏の卑猥なポスター達でした。

今日のような真夏の太陽がそれも真上から照らし付けて中洲の影が運動靴に収まる時間帯にブラ~リブラリの学校帰りです。思えば今日の学習塾など想像すら出来ない只ひたすら遊ぶのが日課の小学校時代。やっぱり中洲の人生で一番幸せなひと時でした。

大名小学校(福岡市天神)の校門を出て電車道(明治通り)を渡り50m道路(昭和通り)を横切ると目当ての看板がずらりと並ぶ須崎の薄汚い路地に出ます。傍らにはいつもの通りガキ仲間のナベヤマが付いていました。この遊びではお互い気まづいので話をしません。その日の看板は川丈劇場の入浴ショーのドギツイ裸です。ストリップの看板と並ぶセックス映画となると写真に代わって露骨な漢字で欲情を煽っておりまして、ここでは中洲は大人顔負けの漢字少年でした。

その頃封切られたマリリンモンローの「ショーよりステキな商売はない」のポスターが印象的。モンロー出演の名場面地下通風口からの風に煽られたスカートの前を抑えてセクシーに微笑む色っぽい姿もあります。ここで言う「ショー」って先ほどのストリップショーかなと妄想したのを覚えております。

その頃ですよ。モンローとディマジオの2人が新婚旅行で博多にやって来たのは。終戦から9年経って人々は何とか飢えを凌げるようになりました。そんな時に世界一のセクシー女優モンローの来日でしかも来博です。福博の男が狂喜する中で大パレードと中洲ロイヤルで本物洋食物語の開花でした。何と母親若子の妹の良子の亭主ワタナベが進駐軍の関係でモンロー2人に通訳で付き添ったのです。ロイヤルレストランを興したエガシラさんもワタナベの世話になった等、裏道ながら母親若子達の一族も戦後日本の花の山に少し関与していたのを思い起こしました。

日本中の大人にも子供にも薄い靴底から溶けたアスファルトの熱気が伝わるそんな時代。今思えばあの時代大人達を激しく揺すったのは経済復興の熱だけでなくダイレクトなセックスの熱気だったような感じがします。少年中洲達も学校帰りエロ看板でそのセックスの熱気に当てられていたわけです。

映画「禁じられた遊び」が封切られました。

この映画はきっと男の子と女の子が封印された情交の世界に入った物語に違いないと勝手に想像して興奮。結局妄想だけで映画はどれも見ずじまいの小学校時代でした。

星野焼源太窯(その2)

春先の柔らかな日差しに包まれ山あいに少し遠慮するように星野焼源太窯がたたずんでおりました。辺りに人の気配はありません。10m程坂を登ると朽ちかけた小屋の奥に小物雑器が並んでおり、どの焼物にも丁寧なロクロの技が伝わります。窓脇に本が2冊立てかけてあって手に取ると一冊は「土泥棒」それと詩集の「蛇苺」と言う表題でいずれも源太著。そうか源太さんは陶工にして詩人なのです。

1942年3月4日鳥取県の山村に生まれる。15歳の頃、北へ憧れる。山陰、北陸、東北、日本海沿岸を放浪。20歳の春、陶工を志す。伊勢「神楽の窯」で基礎を学んだ後、陶郷小石原へ。1968年26歳の秋、星野に「源太窯」を開き古窯  星野焼を再興する。

詩集の末尾に載せられた山本源太の略歴でした。

源太が「蛇苺」に吐露するのは少年期から思春期そして放浪に出た青年期の心の葛藤で中洲士郎が憧れ悩み恥じて封印すらしていた青春を代弁してくれておりました。ピンポイントの言葉が本のあとがきに見えます。

おそらく誰でも経験するあの不思議な感情。うつくしいものを志向しながら、身内にどす黒く渦巻ている力をおもって、ほとほと困りはてていた少年時代。

その頃、東京から赴任してきた国語の教師は、何も知らない僕等に朔太郎やホフマン、カフカなどを熱心に吹きかけたのだ。死の匂いさえ漂わせながら教室で講義する。教師というより初めて見る人間の、眼鏡の向の奥深い「瞳」に催眠術にでもかけられたように吸いつけられてしまったものだ。続く。

性に目覚めるあの頃を「ほとほと困り果てていた少年時代」と形容する筆力に多年の胸のつかえがとれる思いでした。日頃さまよい歩いて詩集を手に小石原にも紛れ込んでいた中洲士郎にも十分にその動機はありました。しかし源太のように実際に放浪に飛び出す勇気は持ち合わせていません。勿論自分の体力、根性から窯暮れ人生の選択肢は湧いても急いでそれを打ち消し妥協の道を選択。その源太は火夫(ひおとこ)のいばら道を50年歩み続けたのです。

程なくその詩人と陶工2つをモノにした源太さんが目の前に現れました。自信のないそれでいて人恋しの趣きがあって尻軽女が直ぐに付いて行きそうな男前じゃありませんがたしかに「いい男」の顔です。記憶に残る小石原の力太郎窯で修業していた若者とは別人のようです。聞くと力太郎の窯に居たのは別の山本で山本幸一、今は熊本で山幸窯を開いているとのこと。本人は隣家のフジノリの窯だったそうです。言わず語らずに力太郎の美貌の三人娘の長女には少なからず想いを寄せていたようです。(まさか!中洲の恋仇か?)詩集蛇苺の一編に小石原での修業時代の詩を紐解いてもらうとあの力太郎窯の裏山の描写に

ニワトコよ  ダラよ  野桐の芽もよ  ぼくは聞く・・・・。ひとりの青年のやるせなさが謳われていました。

すると他愛もない男の会話に老婆(ラオポ)が割り込んできました。

我が老婆(ラオポ)が師事する農民詩人の松永吾一さんと源太さんが敬愛した詩人丸山豊とは詩作を通して競い合い尊敬し合う仲だったそうです。母屋の横の小さなテーブルと低い椅子で2人は互いの師匠を話題にしております。源太さん、頃合いを見ては片口に茶を注ぎ程よい暖かさの八女茶を老婆(ラオポ)の茶碗に差しております。「星野焼に茶を注ぐと器の底が金色に輝きます」と。確かに深い輝きが見えました。源太さんは中々の商売上手。ふたりが話にふける間に値が張る湯呑みを買ってしまいました。

力太郎の娘の話になると目を吊り上げる老婆(ラオポ)も好きな詩人の話に源太さんと興じて中洲は蚊帳の外に。超倦怠期の「ひきこもり」夫婦から別々の玉手箱を器用に開けてくれた源太さんでした。

50回目の結婚記念日に思いもしなかったプレゼントに心地よい帰途です。老婆(ラオポ)が坂を下りた茶店で八女茶を買って車に戻りました。「源太さんに頂いたあのお茶はこのお店で最高の品だ」って。どう見ても収入の乏しい貧乏詩人がねえ。そんな高いお茶で一限の客をもてなしてくれたとは。少し日が陰った山あいにひっそりと佇む源太窯をバックミラーに黙礼して一路予定の晩餐会「初心」へ。

星野焼源太窯(その1)

あの日のことはやはり書き記しておきたい。そう思ったのは我が貧乏団地の公園の桜が狂おしく花びらをアスファルトの小径に撒き散らしている4月7日も夜更けになってのことです。

中洲にはこれといった才能は無く格別誇れる人生を歩いて来たわけじゃありません。だけど人様に申し訳ないほど面白い毎日を過ごさせて貰っております。しかしガサツな日々の中で何か大切な忘れ物をしていると時々感じます。その忘れ物の正体は出会って初めて「そうだ、そうだったのだ」と気付くのです。皆様もそんな出会いをご経験されたことがお有りでしょう。

その格別の場面は例によってつまらないキッカケから惹き起こされました。

3月21日の事です。冷えてはいないが徹底的に無関心の老婆(ラオポ)と老公(ラオコン)にも結婚50年の記念日がやって来てしまいました。中国出張の予定を組み込んでいましたが老婆(ラオポ)の呪いがかかりそうな気がして出張を取りやめ美味い飯にでも連れ出すことにしたのです。それであの福岡市の平尾交差点の「初心」に席を頼みました。

その日の朝「飯だけじゃあね・・・」そこで充分に記憶の外にある面倒なドライブに出かける次第になったわけです。柳川の老婆(ラオポ)の実家に久し振りに顔を出し昼飯時前にいとまを告げ、八女の方で何か食べて久留米絣の作務衣でも探して時間潰しをするコースを選びました。

ところが全く不毛のドライブ、昼飯はよりによってドラッグストアでの冷たい弁当、それに二軒の機屋(はたや)も休日。地場物ブームのご時世に乗っているのでしょうか、ちっぽけな機織り屋の大きな駐車場に観光バスが押し寄せているのが見て取れます。馬鹿馬鹿しくもあり最悪の遠出の予感。これじゃさすがに老婆(ラオポ)にも悪い。ここはなんとか挽回しなくっちゃ。

そこで記憶の歯車を回しました。確か50年程前、小石原の力太郎の本家の窯で修業していた2人の若者の一人「源太」が八女で窯を開いる事を思い出しました。愛車の中でネットを開くと「星野焼源太窯」とありました。そこでちょっと源太窯とやらを覗いてみる事にしたのです。

そこで青春の忘れ物に出会ったのです。

ヘルシンキにて

皆さ~ん。とお声掛けします。この歳になり初めて社内ブログを公開してみて思案すること沢山です。

最近ちょくちょく「ブログいつも読んでますよ」と社外の人に言われます。するとご当人に対して恥ずかしさと奇妙な嬉しさを伴う微妙な親近感が湧いて来るのです。逆にその結果このところ1ヶ月ほどペンが動かなくなってしまいました。

正確な情報を敢えて書き換えるのと、間違った情報を書き連ねる事は全く別物。となると自分の経験してない事はしっかり取材して裏付けを取らないといけません。それに人様に読んで頂くとなるとヤッパリ文章力です。暑い暑いといっても既に9月に入った夜更け、何の気はなしにiPadで青空文庫から大正昭和の小説をめくるうちに岡本かの子の短編小説「老妓抄」にたどり着きました。とにかく上手いのです。読者をグッと作中に引き込み、読後各自各様の人生にそんな「老妓」がチラリと姿を見せます。

中洲の場合は「中洲若子の話」で母親若子が駆け抜けた昭和を記す積りです。じゃあ若子とはどんな女だったのか。昭和とはどんな時代だったのか。彼女の何を残したらいいのかを「老妓抄」から思い起こすうちにこれも描けなくなってしまいました。

それに岡本かの子の語彙の豊富さと文章の艶。文豪だから当然といえば当然だが中洲の下手なブログに1分でも貴重な時間を浪費させられた読者は堪りません。それでも世間に恥をさらしながら老婆(ラオポ)に毒づかれながら「美味い話」を一つ遺してみたいもの、そんな気持ちで「岡本かの子」にも「菊池寛」にもしばらく痺れておりました。

実は中洲に唯一自信がある主題と言えば「夢追う老人の他愛ない発明発見の話」です。これだとブログとしては無難ですね。しかしこれだって過去の発明ならある程度正確な時系列の中で記述しないとまずい事になります。

それもあってこの9月23日から30日までの欧州出張中にフランス人エリックをミュンヘンに呼び出し彼の側から化学発光物語を吐いてもらいました。場所はオクトバーフェスタの大喧騒のテントの中。英語フランス語日本語のちゃんぽんをアイフォンに録音しました。酔って宿でメモに抜き出し時間軸に整理すると言う涙ぐましい努力です。

皆さん、作家という人たちは大変な努力家なんですね。それって読者に読ませる為もあるけど実は自分が読んで面白くて仕方ないからじゃないかと思います。  中洲士郎も少しだけ作家気分でブログのための取材旅行を楽しんで感じた次第です。

オクトバーフェスタ2018

足跡その2

皆様。中洲は相変わらず老いた働きアリです。本当は今日帰国して明日は由布農園でログ牛舎建設打ち合わせの予定でした。それが急遽明日から深圳出張が組み込まれてしまいました。

ブログはというと開発物語をサボってこの1ヶ月三文作家のまねごとをしております。どうにか「青山功夫の話」と「中洲若子の話」では農業で言えばやっと荒地を耕したところです。2人の人物どう活写したものか想が浮かび上がるまでここ暫くは本業に戻り開発談義を再開することにします。

昨日のブログでまた年寄りの嫌味な繰り言を書き連ねてしまいました。今朝は会社の寮がある旅順藍湾(ランワン)マンションの広い公園をぶらぶらしました。思い起こせばここに入居したのは2012年5月。前の総経理がクーデターを起こしルミカ大連乗っ取りを始めたので彼らと戦うための根城がこのマンションでした。

それで初めて中国でのマンション事情に触れたわけです。最近耳にするのはマンションの一軒家主にとって1000万円の投資と言えば大金。マンションが痛んで値打ちが下がるのも気がかり。そんな時耳にするのは日本人の評判です。日本人に借りて貰うと売る時手入れが行き届いて直ぐに売れるし条件もいいと言うので管理会社も喜んで世話してくれると聞きました。ルミカの皆さん入れ替わり立ち替わりだけど誰も部屋の掃除洗濯が行き届いて大連市内のホテルより余程快適です。

今日の土曜日独り腕によりを掛けてチェリージャムの豚角煮とハルピンの奥山で採れた本シメジのカレーを作りました。夜は2号館の山手君冷たいビールを手にここ6号舘にやって来て2人で晩餐会。勿論後片付けは山手君がしっかりやってくれました。

足跡

大連ルミカでヤマテさんと激しく仕事をしております。旧工場から新工場移設作業の中で生産工程どれをとっても40年ひたすら進化を拒絶してきた姿がありありで2人はそこかしこで絶叫しております。

「ケミホタルの話」で縷々語りましたがルミカはその出生に問題があったために命令系統が曖昧のまま人員が増えました。生産現場というのは地層のようにその会社の技術開発の風土が映し出されます。ルミカには製造責任を自覚した「長」がいなかったのです。

これはルミカの生産現場に限ったことではありません。己の責任を認識して毎日それを反芻する「長」の下なら人は育ちチームは大きく成長を遂げます。しかし現実社会では平気で真反対が横行しているようです。そんな職場では明日が見えません。そして朝の出勤が辛くなるのでは。

本当ならルミカは日本を代表する会社になれたのに。しかし幸いルミカは生きております。40年経って漸くくびきから解放された今、これからルミカは明日に夢が託せる会社になれるような気がしました。

後々嘗ての自分の職場に人が足を踏み入れた時そのすがすがしさにウットリするといいなあ。

30年の代物。新工場でまだ働きます。

暑い夏の夜には

仲間たちをビッグサイトに残して1人帰福です。ホンダの愛車で空港から我が団地に到着したのは7時も過ぎていました。

明日から又出張で今度は上海です。髪が伸びて何ともスッキリしません。そうです今日は散髪の話です。

日常で頑固に変わらないのが散髪でしょう。誰しも散髪の物語すれば一冊の本が出来上がりますね。何しろ月に一度の散髪だけは巷に溢れる品物みたいには変えられないのです。

だがこんな時間に「花花」が店を開けてるはずがありません。6時半にはたった1人の店員鈴木君は帰宅します。半分諦めて電話してみたらマスター「いいよ。店閉めて書き物してるから開けよう」それでUターンして店に飛び込んだのは7時半でした。

ここでの散髪は摘む方も摘まれる方も慣れたもので15分とかかりません。客の誰しもこの散髪の間の他愛もない会話が店を変えられない訳の一つでしょうか。

「店閉めとったのにゴメン。何しろ明日からの出張、むさ苦しくてやりきれん」「いいよ。暇で絵を描いとっただけやから」「ふ~ん。相変わらず下手な絵描いとるの?」「始めて5年になる。それが人に勧められて県展なんかに出したらみんな入選してしまうんよ」「水彩の風景画やったよね」「今は油絵で仏像画ばっかり」「仏像画ならワケありだから審査員も簡単に落とせんかもしれんな。どうして仏像画なんか描き始めたの?」「宝満山のカマド神社に行って観音様描いたら自分でも上手く描けたの。それで他人に見せたくなって店のお客の1人に電話して見せに行ったの」ここまでの話は実のところバカバカしくて調子だけ合わせていたのです。

この後話が怪しくなってきて思わず背すじを伸ばしました。その散髪のお客の旦那、マスターの絵を見るなり泣き出してしまったという。観音様の顔がつい最近亡くした妻にそっくりだと言うのです。勿論マスターはその奥さんに会った事もないし亡くなったことも知りませんでした。それで哀れになって旦那に絵を呉れてやったら毎日大切に拝んでいるそうです。人伝に話を聞いた人に頼まれて仏像画を描いては上げること数十枚になったらしい。

絵心ある中洲には「下手な絵を描いて貰って飾る心境」が理解できません。ところが話に乗ってきたマスター、まだ客の髪をつみ終わっていないのに僅か2脚の散髪椅子の小さな店に奥から大きなキャンバスを次々と5枚も運び入れて来ました。今描いているのは3尺X6尺2枚のキャンバスに牛と岩盤に乗った2体の仁王像がお数珠で繋がれている様で更に3枚描いて都合5枚の屏風仕立てになるそうです。どの仏像も巧みな陰影の中で生身の人間に代わっているようです。勧められて今度は日展に出すらしい。信じられん。身近にこんな親爺がいるとはねえ。

ついでに写真帳の中の例の観音様の絵を見せて貰いました。淡いオレンジとピンクの絵模様の中の観音様は福よかな微笑みを湛えたいいお顔です。

どうも何かが中洲にこんな絵を見せるために時空を設定したのでしょうか。妻を亡くして悲嘆に暮れる亭主にその妻が観音像を描かせて届けさせたように。

暑い夏には怪談が付き物。西鉄朝倉街道駅から歩けば10分位。店の名前は「花花」です。

5歳の子供

7/14(土)22歳のその娘は博多の中洲でバーやっておりました。店がどうにか軌道に乗ったので祖母の元に預けていた息子を店に引き取ります。

母親として振る舞うのは初めてのこと。ぎこちなく「電車に乗せてあげよう」と息子を西鉄急行電車に乗せて天神から春日原の大神家に向かいます。息子は生まれて初めて乗る急行電車、車窓の街の景色がどんどん後方へ移るのにおどろきながら女性を観察します。地味な和服に身を包んでいます。「大きい姉ちゃん」と呼ぶのも憚られかと言って「かーちゃん」と呼ぶのも恥ずかしく生まれて初めて誇らしくウキウキしました。春日原まで立ったまま、母親はずっと窓の外を眺めて無言でした。昭和24年の春中洲士郎5歳になったばかりでした。

あれから70年。筑紫野のイオンモールの3階。前を歩く息子夫婦とワガママ一杯の5歳と7歳の孫を見ながらあの時の記憶が蘇りました。「今日は金持ちの爺ちゃんにおもちゃを買ってもらうのだ」と連れ出されております。