由布農園の昼下がり

最近はとみに高齢者の運転事故が問題ですね。ウッカリミスが殆どで中洲も毎日身に沁みております。昨日も大きな旅行カバン抱えての大連行きで・・・チェックインしようとしたら予約した搭乗日が間違ってて乗れませんでした。馬鹿さ加減にドッと疲れが出ます。

しかし「これ幸い」と大連でのアイパオ戦闘はオーノ、イワモト、ヒメノに託して今日は朝早く会社でサクラマス達の世話をして由布農園に駆けつけました。

ヤッパリ休日は農園に限ります。アスキーに起こされて淡竹(ハチク)の筍狩です。愛車アウトランダーの中で冷房かけてウトウトと幸せなお昼寝に浸り切っていたところでした。

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新澤さんがヒロコさんの為に里芋植えてます。

しつけの悪いアスキーの鶏たちが直ぐに畑の畝を壊します。可哀想なニイザワさん仕方なく網を張ってました。

それでアスキーがパンで彼らを呼び寄せて連れ帰りました。

田んぼではニイザワ小屋で育った合鴨の雛が今年も健気に水を掻いております。

新築中の中洲別荘。由布岳を背景に現れる勇姿と共に中洲のヘソクリはどんどん減ってしかも支配権は中洲の手から離れようとしているのです。

帰路、お魚用の200Lの水を揺らしながら大分道を走って夕飯に急ぎました。

チェリービールの話(その12)

市場調査のお話です。

長い大連出張からやっと日本に戻りました。会社というのは業績悪くて必死の時に気付かないのが「社内の厭世ムード」です。それが業績好調になると若い者は目的失調にでもなるのか鬱に囚われるようですね。

開発小屋でくつろぐ暇もなく管理本部長から「大変です!」と泣きつかれたのです。やれやれですね。しかし(これはいい口実になる)と思い直し「よ~しこんな時は飲みに行かなくっちゃ」とばかり問題のA君を連れて古賀からバスに乗って中洲に繰り出す事にしました。

中洲村も久しぶりです。バスを降りて日銀の裏手にある喫茶兼スタンドバーをふと思い出し、ちょっと顔を出す事に。そこのママは中洲若子の仲良しだったのでそのお礼で若子の死後時々飲みに行くようになりました。ほんの暫くのご無沙汰だと思っていました。今日の相棒のA君と静かに止まり木で冷えた生ビールで喉を潤して退散する心算が・・。「士郎さん、6年も来とらんよ。この子知らんやろう。もう5歳だ」ぽっちゃり丸顔のママが違う相手に本気で怒ってるようでした。抱いているのは可愛い娘でね。「あのう。僕の子じゃないよねえ」それで大爆笑。見知りの偉い先生(多分ママの追っかけ)も入ってきて店は大賑わいになりました。思えばズ~っと開発暮らしだったのです。

時間がないので傍の(管理部で頼りとする)A君を引っ張って隠れ居酒屋の「地球屋」と中洲村で一軒しか知らない「飲み屋N」を回って家にたどり着いたのは真夜中。長い出張でした。

翌朝「帰ってすぐに何処を飲み歩いとるんや」の老婆(ラオポ)に「開発や開発!」

実際綺麗な女性たちを前に中洲節で大騒ぎしてしまいました。年に一度も行かんのにそこも常連の振る舞いでねえ。(嫌ですねえ。静かに飲めばいいものを)しかし飲み屋で女性を喜ばせる極意はですねえ。大抵「実は今・・極秘のミッション中でね」と、懐から開発品を取り出して披露するのです。な~んだ思い出しました。いつも「ドラえもん」やってるわけです。

今回テーブルで披露するのは大連で誕生したばかりのルビー色に輝く「ルミコチェリーソース」(左手)とこれを使った極限のカクテル。この色をご覧あれ。「信じられない美味しさだわ!!」綺麗なホステスさんに気を良くしたが心配した通り帰りの勘定は高くてねえ。当分遊べません。

中洲若子の話(余話その2)

ネットの検索エンジンってどんな仕組みなんでしょう。何でも調べ出せるが消されて行く情報も有るのですね。

母親の中洲若子の命の炎が細くなってしまってから彼女の奉公先が「いっぽうてい」であることを知りこれを手掛かりに中洲士郎のルーツ探しが始まりました。これを「中洲若子の話」として兎に角書き終えて中洲若子を弔ったのです。

最近は「一方亭」も検索にも掛からなくなってきました。一方亭のドラマが書に残らず歴史から消え去るのは寂しい限りです。

6月6日夜の事です。翌日からのチェリービールに添加するチェリーソース開発で大連にやって来たイケダ君と旅順の藍湾の賃貸マンションで飲んでおりました。夜も更けて取り留めない話がブログの「一方亭」に及んだのです。

8年前入社したばかりのフジイ君とイイダ君を連れて居酒屋「一方亭しょうき屋」の暖簾をくぐったのが探索の始まりでした。そのフジイ君が検索を続けたら遼東半島で日本建築の史跡を訪ね歩く粋人の写真ブログに「大連の一方亭」が収まっていたそうです。説明によると旅順の老虎灘の切り立った断崖の上に本家の一方亭を模して高級料亭が建てられたのは1932年、遼東半島が日本の租借時代だった頃です。本家の一方亭は戦後進駐軍に徴収された後焼失したのでその姿が僅かの写真に伝わるだけでした。なのにその雄姿が此処大連に残っているというのです。

イケダ君とバンちゃんが折角大連まで応援に来てくれたので張先生農園で仕事を終えて今日は2人に何かご馳走しなきゃと街に繰り出しました。最近大連空港前の通りにも万達集団が洒落たレストラン街を作りました。一画に大きな「龍虾館」が目に留まります。ロブスターを漢字表記したらそうなるのでしょうか。豪華な店内に客の姿は有りませんでした。メニューを開くとロブスター一皿270元(4000円)。まあいいかとオーダーしました。甘辛い味付けで傍の若いバンちゃん辛さに悲鳴あげながら元気にパクつきました。さてお勘定。なんと1050元(18000円)です。3斤半(サンチンバン)だと言ってます。そうかメニューの価格は1斤(500g)当たりだったのですね。金持ちに見えない客の懐を心配して、それで大きな生きエビをテーブルに見せに来たわけか。

中洲は気に掛けないフリをして銀レイカードで支払いましたがエラく高い食事、20年間の中国出張で一番高い食事に「ガクッ」です。

これが一皿15000円の料理です。

懐は厳しくなりましたが美味い食事にすこぶる気分良く、オリンピック広場のウオールマートで買い物を済ませて、ふと・・タクシーの運転手に老虎灘の一方亭跡に連れて行って貰う気になったのです。

80年以上の風雪に耐えた未だに勇壮な姿に当時の栄華が偲ばれます。一体日本の誰が此処に一方亭を建てたのでしょう。当時の一方亭の女将の高橋朝子はこの建築に関わったのでしょうか。もう少し一方亭探索は続くようです。

 

 

星野焼源太窯(その2)

春先の柔らかな日差しに包まれ山あいに少し遠慮するように星野焼源太窯がたたずんでおりました。辺りに人の気配はありません。10m程坂を登ると朽ちかけた小屋の奥に小物雑器が並んでおり、どの焼物にも丁寧なロクロの技が伝わります。窓脇に本が2冊立てかけてあって手に取ると一冊は「土泥棒」それと詩集の「蛇苺」と言う表題でいずれも源太著。そうか源太さんは陶工にして詩人なのです。

1942年3月4日鳥取県の山村に生まれる。15歳の頃、北へ憧れる。山陰、北陸、東北、日本海沿岸を放浪。20歳の春、陶工を志す。伊勢「神楽の窯」で基礎を学んだ後、陶郷小石原へ。1968年26歳の秋、星野に「源太窯」を開き古窯  星野焼を再興する。

詩集の末尾に載せられた山本源太の略歴でした。

源太が「蛇苺」に吐露するのは少年期から思春期そして放浪に出た青年期の心の葛藤で中洲士郎が憧れ悩み恥じて封印すらしていた青春を代弁してくれておりました。ピンポイントの言葉が本のあとがきに見えます。

おそらく誰でも経験するあの不思議な感情。うつくしいものを志向しながら、身内にどす黒く渦巻ている力をおもって、ほとほと困りはてていた少年時代。

その頃、東京から赴任してきた国語の教師は、何も知らない僕等に朔太郎やホフマン、カフカなどを熱心に吹きかけたのだ。死の匂いさえ漂わせながら教室で講義する。教師というより初めて見る人間の、眼鏡の向の奥深い「瞳」に催眠術にでもかけられたように吸いつけられてしまったものだ。続く。

性に目覚めるあの頃を「ほとほと困り果てていた少年時代」と形容する筆力に多年の胸のつかえがとれる思いでした。日頃さまよい歩いて詩集を手に小石原にも紛れ込んでいた中洲士郎にも十分にその動機はありました。しかし源太のように実際に放浪に飛び出す勇気は持ち合わせていません。勿論自分の体力、根性から窯暮れ人生の選択肢は湧いても急いでそれを打ち消し妥協の道を選択。その源太は火夫(ひおとこ)のいばら道を50年歩み続けたのです。

程なくその詩人と陶工2つをモノにした源太さんが目の前に現れました。自信のないそれでいて人恋しの趣きがあって尻軽女が直ぐに付いて行きそうな男前じゃありませんがたしかに「いい男」の顔です。記憶に残る小石原の力太郎窯で修業していた若者とは別人のようです。聞くと力太郎の窯に居たのは別の山本で山本幸一、今は熊本で山幸窯を開いているとのこと。本人は隣家のフジノリの窯だったそうです。言わず語らずに力太郎の美貌の三人娘の長女には少なからず想いを寄せていたようです。(まさか!中洲の恋仇か?)詩集蛇苺の一編に小石原での修業時代の詩を紐解いてもらうとあの力太郎窯の裏山の描写に

ニワトコよ  ダラよ  野桐の芽もよ  ぼくは聞く・・・・。ひとりの青年のやるせなさが謳われていました。

すると他愛もない男の会話に老婆(ラオポ)が割り込んできました。

我が老婆(ラオポ)が師事する農民詩人の松永吾一さんと源太さんが敬愛した詩人丸山豊とは詩作を通して競い合い尊敬し合う仲だったそうです。母屋の横の小さなテーブルと低い椅子で2人は互いの師匠を話題にしております。源太さん、頃合いを見ては片口に茶を注ぎ程よい暖かさの八女茶を老婆(ラオポ)の茶碗に差しております。「星野焼に茶を注ぐと器の底が金色に輝きます」と。確かに深い輝きが見えました。源太さんは中々の商売上手。ふたりが話にふける間に値が張る湯呑みを買ってしまいました。

力太郎の娘の話になると目を吊り上げる老婆(ラオポ)も好きな詩人の話に源太さんと興じて中洲は蚊帳の外に。超倦怠期の「ひきこもり」夫婦から別々の玉手箱を器用に開けてくれた源太さんでした。

50回目の結婚記念日に思いもしなかったプレゼントに心地よい帰途です。老婆(ラオポ)が坂を下りた茶店で八女茶を買って車に戻りました。「源太さんに頂いたあのお茶はこのお店で最高の品だ」って。どう見ても収入の乏しい貧乏詩人がねえ。そんな高いお茶で一限の客をもてなしてくれたとは。少し日が陰った山あいにひっそりと佇む源太窯をバックミラーに黙礼して一路予定の晩餐会「初心」へ。

星野焼源太窯(その1)

あの日のことはやはり書き記しておきたい。そう思ったのは我が貧乏団地の公園の桜が狂おしく花びらをアスファルトの小径に撒き散らしている4月7日も夜更けになってのことです。

中洲にはこれといった才能は無く格別誇れる人生を歩いて来たわけじゃありません。だけど人様に申し訳ないほど面白い毎日を過ごさせて貰っております。しかしガサツな日々の中で何か大切な忘れ物をしていると時々感じます。その忘れ物の正体は出会って初めて「そうだ、そうだったのだ」と気付くのです。皆様もそんな出会いをご経験されたことがお有りでしょう。

その格別の場面は例によってつまらないキッカケから惹き起こされました。

3月21日の事です。冷えてはいないが徹底的に無関心の老婆(ラオポ)と老公(ラオコン)にも結婚50年の記念日がやって来てしまいました。中国出張の予定を組み込んでいましたが老婆(ラオポ)の呪いがかかりそうな気がして出張を取りやめ美味い飯にでも連れ出すことにしたのです。それであの福岡市の平尾交差点の「初心」に席を頼みました。

その日の朝「飯だけじゃあね・・・」そこで充分に記憶の外にある面倒なドライブに出かける次第になったわけです。柳川の老婆(ラオポ)の実家に久し振りに顔を出し昼飯時前にいとまを告げ、八女の方で何か食べて久留米絣の作務衣でも探して時間潰しをするコースを選びました。

ところが全く不毛のドライブ、昼飯はよりによってドラッグストアでの冷たい弁当、それに二軒の機屋(はたや)も休日。地場物ブームのご時世に乗っているのでしょうか、ちっぽけな機織り屋の大きな駐車場に観光バスが押し寄せているのが見て取れます。馬鹿馬鹿しくもあり最悪の遠出の予感。これじゃさすがに老婆(ラオポ)にも悪い。ここはなんとか挽回しなくっちゃ。

そこで記憶の歯車を回しました。確か50年程前、小石原の力太郎の本家の窯で修業していた2人の若者の一人「源太」が八女で窯を開いる事を思い出しました。愛車の中でネットを開くと「星野焼源太窯」とありました。そこでちょっと源太窯とやらを覗いてみる事にしたのです。

そこで青春の忘れ物に出会ったのです。

アイパオの話(その12)

「中洲流遊説術」なるものの話を聞いてください。中国語の単語に「老婆」と「老公」があります。ラオポーとラオコンと発音します。永く連れ添った二人が「ねえあんた」「なあおまえ」と呼び合う言葉でしょう。この親しい呼び掛けも語尾が下がるとヤバくなります。

「ねえあんた   今年は30万円づつ3回預金が下ろされてるけど一体何があったのよ。」

「・・・・」

「ウ~ン。チョットだけ人助けでねえ・・・」

我が老婆も知っている相手だ。由布院で亭主に先立たれ残されたちっぽけな食堂で命を繋いでいる老婦を援助しているうちに夜逃げされて焦げ付いた金です。

「大概にしなさいよ。あんたは人を見る目がないんだから。何よ他人にばっかいい顔して」とまあこう言うのはウチのラオポーだけじゃありません。

しかしこういう時に

「そ~かあ。まあ仕方ないよ。あんたには人を見る目が無いから私と一緒になったんだよね」とでもジョークが出れば男は痺れてもっと恐怖を覚えますが。

だが男の場合は修羅場でジョークの一つが出るか出ないかで値打ちが変わるのです。中国古代史でも一番面白い下りが「我が舌を見よ、まだ有りや否や」でしょう。

史記(十八史略にも)に司馬遷が語るのが戦国時代の遊説家張儀の話です。魏の人、張儀が南方の楚国に遊説に出かけて酷い目にあわされました。大怪我を負って帰宅した時かみさんが張儀を怒って「おとなしく百姓しとけばいいものを柄にもない遊説などしおって」とか何とか言って亭主をなじります。とその亭主張儀がぺろッと舌を出して言うセリフが「我が舌を見よ・・」です。そして又遊説に出て連衡策即ち楚斉燕韓魏趙の六国を秦に仕えさせて秦の覇権を成立させるのです。2000年以上も前の夫婦の話面白いですね。

しかしウチのラオポーは張儀の嫁はんよりも更に凄いようです。茨城での作戦中に諜報員を送り込んで来たのです。策略家中洲もこれには驚きました。4月15日の夕刻でした。老婆(ラオポ)の従兄弟の営造が何年振りでしょう突然電話を寄越して「自分は今被災地救援に来とるが伯父さん今何処だ」と聞く。そしてわざわざ茨城までやって来て我が一夜城のパオを見おったのです。そして「こりゃ凄い」と抜かす。

17日着替えを取りに帰宅した亭主に老婆優しそうに笑いかけて「お前さん被災地でトイレ作ってんだってね。営造から聞いたよ」これは油断がならぬ。そして更に続けて「それで16日は何処に泊まっとった?」

アクセスの速さとITの進歩で世のラオコンにはラオポーから隠れる場所が無くなってしまいますね。

アイパオの話(その9)

4月4日の記録です。東北震災救援で小生意気なミキに遅れをとって気が焦っておりました。アイパオが形にならず未だ救援トラックは出発できません。ここ福岡のホームセンターでさえ復興資材機具の類いが姿を消してアイパオのセッティングに難儀しているのです。

そんなモヤモヤの中、このところの花冷えが凍えた今冬を思い出させます。桜は五分咲き。そして直に爛漫の春がやって来るのです。

そんな時節にあの男北川安洋が逝ってしまいました。4月2日に亡くなり4日はお通夜です。79歳でした。春の宵のこぶしの花の手招きに誘われて旅立ってしまったのです。この世からまた一人いい男がいなくなりました。

一代で世界的な疑似餌(ルアー)メーカー・ヨーヅリを立ち上げた北川安洋には老弱男女を問わず彼を知る人は皆ファンになります。会社が不振で解雇になった連中さえも彼を慕いました。特に女性、中でも水商売の人なら一目で惚れ込んでしまいます。風貌は<7人の侍>の志村喬を彷彿とさせ若い時、空手や陸上競技で鍛えた逞しい身体に大きな口と人懐っこいギョロ目、魚ならアラの大物です。

「男がいい男を論ずるのはお止め。それは女の仕事よ、そして私のね」とは向田邦子の言葉でした。だが中洲もいい男を論じたいです。無骨で笑いが爽やかで口数少なく日本酒をいっ時も手放せない男です。

それでいて突然「士郎さんよ、わしは最近好きなおなごとでも続けて2度はやれなくなった。衰えたもんだ」と呟いたりするのです。一瞬周りに身内が居ないかと心配しました。まるで小学生が小便を遠く飛ばせるのを自慢するような調子でした。あっけらかんとした色恋なんでしょうね。多分彼を惚れた沢山の女性達は「焼きもち」とか「恨み節」など抱かないのでしょう。ほんのひと時でも一緒に居てくれさすればいいと。

あの開高健にして西に男あり北川安洋と言わしめました。かの越国の美女西施のひそみに倣い彼の飲み方を真似するも中洲では到底様になりません。それでもあんな雰囲気の男になりたいものです。

亡くなって2年が過ぎて生きておられれば80歳の誕生日の2013年暮に登美子夫人から冊子が送られてきました。題は「洋々と行く」。安洋の半生が綴られております。彼を愛して止まなかった人たちが思い出を書き残しました。中洲のようにブログを書かなかった北川安洋の茫洋たる人生を語り継いで貰いたいもの。そんな冊子があること知っておいて下さい。そのうち機会があって登美子夫人の許しが出たらこのブログに冊子のPDFを貼り付けますね。

不思議ですねえ。色んな人物と母親の中洲若子とに接点が生じます。

「佐賀の武雄にいいお客様がいてそれはいい男。奥様も小粋な綺麗な人でねえ」中洲若子の夢を壊しちゃいかんので「その人はワシの友達だ」とは言わずにいますと「あ~あ。ひと時でいいからあんな男の妻として世話焼きたかったなあ」己の不憫をいたわるような口調でした。

然し商品開発だけは簡単には彼に勝ちを譲れません。彼は物作りにこだわりました。そしてモノとは矢張り実際に存在するものから派生しております。中洲士郎はこれからずっと皆さんと蛍の夢に誘われて珍奇な発見と妄想に溺れて参ります。但しそれは未だ誰も見たことがない代物なのです。既にあるものはいくら手を加えても商売になりません。それが中洲の持論です。商品開発も北川安洋と違うやり方をしましょう。女性にモテるのは諦めて。

ヘルシンキにて

皆さ~ん。とお声掛けします。この歳になり初めて社内ブログを公開してみて思案すること沢山です。

最近ちょくちょく「ブログいつも読んでますよ」と社外の人に言われます。するとご当人に対して恥ずかしさと奇妙な嬉しさを伴う微妙な親近感が湧いて来るのです。逆にその結果このところ1ヶ月ほどペンが動かなくなってしまいました。

正確な情報を敢えて書き換えるのと、間違った情報を書き連ねる事は全く別物。となると自分の経験してない事はしっかり取材して裏付けを取らないといけません。それに人様に読んで頂くとなるとヤッパリ文章力です。暑い暑いといっても既に9月に入った夜更け、何の気はなしにiPadで青空文庫から大正昭和の小説をめくるうちに岡本かの子の短編小説「老妓抄」にたどり着きました。とにかく上手いのです。読者をグッと作中に引き込み、読後各自各様の人生にそんな「老妓」がチラリと姿を見せます。

中洲の場合は「中洲若子の話」で母親若子が駆け抜けた昭和を記す積りです。じゃあ若子とはどんな女だったのか。昭和とはどんな時代だったのか。彼女の何を残したらいいのかを「老妓抄」から思い起こすうちにこれも描けなくなってしまいました。

それに岡本かの子の語彙の豊富さと文章の艶。文豪だから当然といえば当然だが中洲の下手なブログに1分でも貴重な時間を浪費させられた読者は堪りません。それでも世間に恥をさらしながら老婆(ラオポ)に毒づかれながら「美味い話」を一つ遺してみたいもの、そんな気持ちで「岡本かの子」にも「菊池寛」にもしばらく痺れておりました。

実は中洲に唯一自信がある主題と言えば「夢追う老人の他愛ない発明発見の話」です。これだとブログとしては無難ですね。しかしこれだって過去の発明ならある程度正確な時系列の中で記述しないとまずい事になります。

それもあってこの9月23日から30日までの欧州出張中にフランス人エリックをミュンヘンに呼び出し彼の側から化学発光物語を吐いてもらいました。場所はオクトバーフェスタの大喧騒のテントの中。英語フランス語日本語のちゃんぽんをアイフォンに録音しました。酔って宿でメモに抜き出し時間軸に整理すると言う涙ぐましい努力です。

皆さん、作家という人たちは大変な努力家なんですね。それって読者に読ませる為もあるけど実は自分が読んで面白くて仕方ないからじゃないかと思います。  中洲士郎も少しだけ作家気分でブログのための取材旅行を楽しんで感じた次第です。

オクトバーフェスタ2018

足跡その2

皆様。中洲は相変わらず老いた働きアリです。本当は今日帰国して明日は由布農園でログ牛舎建設打ち合わせの予定でした。それが急遽明日から深圳出張が組み込まれてしまいました。

ブログはというと開発物語をサボってこの1ヶ月三文作家のまねごとをしております。どうにか「青山功夫の話」と「中洲若子の話」では農業で言えばやっと荒地を耕したところです。2人の人物どう活写したものか想が浮かび上がるまでここ暫くは本業に戻り開発談義を再開することにします。

昨日のブログでまた年寄りの嫌味な繰り言を書き連ねてしまいました。今朝は会社の寮がある旅順藍湾(ランワン)マンションの広い公園をぶらぶらしました。思い起こせばここに入居したのは2012年5月。前の総経理がクーデターを起こしルミカ大連乗っ取りを始めたので彼らと戦うための根城がこのマンションでした。

それで初めて中国でのマンション事情に触れたわけです。最近耳にするのはマンションの一軒家主にとって1000万円の投資と言えば大金。マンションが痛んで値打ちが下がるのも気がかり。そんな時耳にするのは日本人の評判です。日本人に借りて貰うと売る時手入れが行き届いて直ぐに売れるし条件もいいと言うので管理会社も喜んで世話してくれると聞きました。ルミカの皆さん入れ替わり立ち替わりだけど誰も部屋の掃除洗濯が行き届いて大連市内のホテルより余程快適です。

今日の土曜日独り腕によりを掛けてチェリージャムの豚角煮とハルピンの奥山で採れた本シメジのカレーを作りました。夜は2号館の山手君冷たいビールを手にここ6号舘にやって来て2人で晩餐会。勿論後片付けは山手君がしっかりやってくれました。

足跡

大連ルミカでヤマテさんと激しく仕事をしております。旧工場から新工場移設作業の中で生産工程どれをとっても40年ひたすら進化を拒絶してきた姿がありありで2人はそこかしこで絶叫しております。

「ケミホタルの話」で縷々語りましたがルミカはその出生に問題があったために命令系統が曖昧のまま人員が増えました。生産現場というのは地層のようにその会社の技術開発の風土が映し出されます。ルミカには製造責任を自覚した「長」がいなかったのです。

これはルミカの生産現場に限ったことではありません。己の責任を認識して毎日それを反芻する「長」の下なら人は育ちチームは大きく成長を遂げます。しかし現実社会では平気で真反対が横行しているようです。そんな職場では明日が見えません。そして朝の出勤が辛くなるのでは。

本当ならルミカは日本を代表する会社になれたのに。しかし幸いルミカは生きております。40年経って漸くくびきから解放された今、これからルミカは明日に夢が託せる会社になれるような気がしました。

後々嘗ての自分の職場に人が足を踏み入れた時そのすがすがしさにウットリするといいなあ。

30年の代物。新工場でまだ働きます。