ケミホタルの話(その5)

   1977年12月28日早朝フェリーは行橋港に着きました。ふる里Uターンです。

失業の不安を懸命に隠す中洲士郎と初めての家族揃っての旅にはしゃぐ子供達を乗せたニッサンサニーが一路二日市の新しい我家へ向かいます。

M団地は県内でも最安値クラスで住宅公社開発の団地です。建売り物件はいわゆる文化住宅という平屋の如何にも住めるだけの代物です。安さだけでなく長閑な田んぼに建つ木造の小学校が気に入ってこの場所を選びました。40年後の今もタエと士郎の棲家です。-

中洲士郎には今もそうですが凡そ経済観念が無く在職中は毎月殆どの給料を使い果たしていました。退職金が臨時に加わっただけの手元資金は100万円を僅かに超えるだけです。失業して住宅ローンも始まるし、さすがの士郎も不安がつのって参ります。

諸君!会社辞めても決して焦ってはいけないが少しは蓄えを残しておこう。とにかく出費を抑えて生き延びるのです。必ず転機が訪れます。

中洲士郎、職は失ったが自由を手にしました。まあ失業保険も貰えるし暫くは喰って行けるだろうと自分を慰めます。1978年の年が明けました。さて何を始めようか思案しましたが、ケミホタル計画に直ぐに乗り出す気にもなれません。少しだけ時間を楽しませてもらいましょうとライトバンを走らせて焼き物の村「小石原」に行きました。

高校時代何度か遊びに行った梶山豊太郎のうちを覗くことにしたのです。78歳になった豊太郎爺さん、聞けば本家を飛び出して行者杉の下で独り単窯を焼いているというのです。訪ねると喜んで迎えてくれました。

「爺さん!弟子を取る気はないか?弟子がダメなら手伝いをしよう」それから毎日通っては手伝いを始めたのです。

小屋を整理して爺さんの写真を飾り新聞に売り込み徳利を引けば日本一とふれ込みました。実際豊太郎爺さんの技術は凄いのです。それに話術も巧みでたちまち小石原一の人気爺さんになりました。そして見物客にはこの失業者の士郎を「先生だ」と紹介するのです。

士郎も調子に乗って底に穴が空いた花瓶をエポキシで塞ぎ「豊太郎名人の失敗作だ」とか何とか言ってはガラクタ壺を売りまくるので爺さんも調子に乗って島根から植木鉢を仕入れて売り始める始末。小石原の「イカサマコンビ」の誕生です。

爺さん金が入ると原鶴温泉に行っては芸者を上げて飲み明かします。本家で噂しました。「あの時の高校生、20年経って今度は爺さんをたぶらかしにやって来た。持ち山の杉を売って金を作ってニューヨークで個展を開くらしい」と。

豊太郎の名人芸をニューヨーカーに披露しようと思ったのです。実際豊太郎爺さんはこの士郎のプランに大変乗り気でしたが実現しませんでした。

高校生時代から続く爺さんの三人娘家族との親交は中洲士郎の人生の宝です。長女の「かつえ」の亭主ジロウさんは大皿焼かせれば小石原で右に出る者が居ないと言われています。それに大した男前で文化サロンの陶芸教室は今でも女性陣に評判です。

そのジロウさん「俺は種馬よ。息子を作って責任は果たした。人生楽しむだけだ」と屈託ありません。ある時中洲士郎を爺さんの窯で捕まえて「お前だったのか?うちの嫁さんの初恋の相手は」と。思いもしないその一言で士郎の失業者の暗い人生がいっぺんでバラ色に染まりました。

「あのかつえさんが俺の初恋の相手だったなんて!そんなのあるはずない」だが男前のジロウさんに敢えてそれを否定しませんでした。なんとなく女性にモテる気分を味わいました。

この気持ちのいい陶芸家夫婦はそれからもずっと士郎の会社を応援してくれています。

梶山豊太郎。中洲士郎のただ1人の師匠