光るボールの話(その3)

8月8日午後7時、4日間続いた中国中央テレビの人気番組「ブランドファイル」の取材最終章です。場所は大連市旅順口藍湾の海水浴場に取材班とルミカ職員100名が集合。全員疲労困ぱいの中「中洲士郎一世一代の猿芝居」が開演しました。

ジンユイ総経理と中洲士郎董事長互いに密かに期するモノを抱えてのテレビ出演でしたのでそりゃもう神経をすり減らしております。「最後はウルトラCで決めよう」ここだけはバッチリ呼吸が合ったジンユイ総経理との間でシナリオが決まったのは昨日の午後のことでした。

工場の広場ではなく藍湾海水浴場にアイパオで舞台を作りルミカ社員達がシャンパンタワーをバックに新開発の光るボール(仮名メガホタル)を夜空に投げ上げて「お祭り好き」を演出するのです。しかもその様子を新開発のBi見逃サーズで上空から収録します。写真をご覧ください。

テレビの向こうの視聴者はルミカを凄い会社だって思うでしょうね。

実は

ジンユイの「使い捨てシャンペンタワー」も

オーノの「アイパオ」も

ヤマテの「光るボール」も

ヒメノの「Bi見逃サーズオズモ」も

全て今日形にしたばかりで未だ生産ラインは出来てないのです。

「注文が殺到したら」って?

新製品なんて直ぐには売れません。金を掛けずにメディアで騒ぎ立てるのです。価格は大量生産の低価格で案内します。注文有ったら暫く手作りしてから製造装置を組み立てましょう。これが中洲流イカサマ商品開発。有ると見せかけて実は何もない舞台の裏側で皆様とビジネスをスタートアップさせましょう。

空騒ぎが終わって陽がすっかり落ちて砂浜の光の残骸を見ているとふと思います。

「さて次はどうすればいいのかな~」って。

チェリービールの話(その12)

市場調査のお話です。

長い大連出張からやっと日本に戻りました。会社というのは業績悪くて必死の時に気付かないのが「社内の厭世ムード」です。それが業績好調になると若い者は目的失調にでもなるのか鬱に囚われるようですね。

開発小屋でくつろぐ暇もなく管理本部長から「大変です!」と泣きつかれたのです。やれやれですね。しかし(これはいい口実になる)と思い直し「よ~しこんな時は飲みに行かなくっちゃ」とばかり問題のA君を連れて古賀からバスに乗って中洲に繰り出す事にしました。

中洲村も久しぶりです。バスを降りて日銀の裏手にある喫茶兼スタンドバーをふと思い出し、ちょっと顔を出す事に。そこのママは中洲若子の仲良しだったのでそのお礼で若子の死後時々飲みに行くようになりました。ほんの暫くのご無沙汰だと思っていました。今日の相棒のA君と静かに止まり木で冷えた生ビールで喉を潤して退散する心算が・・。「士郎さん、6年も来とらんよ。この子知らんやろう。もう5歳だ」ぽっちゃり丸顔のママが違う相手に本気で怒ってるようでした。抱いているのは可愛い娘でね。「あのう。僕の子じゃないよねえ」それで大爆笑。見知りの偉い先生(多分ママの追っかけ)も入ってきて店は大賑わいになりました。思えばズ~っと開発暮らしだったのです。

時間がないので傍の(管理部で頼りとする)A君を引っ張って隠れ居酒屋の「地球屋」と中洲村で一軒しか知らない「飲み屋N」を回って家にたどり着いたのは真夜中。長い出張でした。

翌朝「帰ってすぐに何処を飲み歩いとるんや」の老婆(ラオポ)に「開発や開発!」

実際綺麗な女性たちを前に中洲節で大騒ぎしてしまいました。年に一度も行かんのにそこも常連の振る舞いでねえ。(嫌ですねえ。静かに飲めばいいものを)しかし飲み屋で女性を喜ばせる極意はですねえ。大抵「実は今・・極秘のミッション中でね」と、懐から開発品を取り出して披露するのです。な~んだ思い出しました。いつも「ドラえもん」やってるわけです。

今回テーブルで披露するのは大連で誕生したばかりのルビー色に輝く「ルミコチェリーソース」(左手)とこれを使った極限のカクテル。この色をご覧あれ。「信じられない美味しさだわ!!」綺麗なホステスさんに気を良くしたが心配した通り帰りの勘定は高くてねえ。当分遊べません。

チェリービールの話(その1)

 

皆さますっかりご無沙汰致しております。と申しましてもこのブログにお付き合い頂いております方の数が少ないのが幸いです。

駄文でも書いてみて少しわかるのですが日本語って本当に奥が深い。まさに明治から世に出んとする無名の作家達が飢えの中で生み出した言葉の宝石の数々。どれひとつ拾い上げても中洲の遊びの文章では到底太刀打ち出来ません。それでついつい文章が書けなくなってしまったのです。それでも「文を読んでもらう為じゃない。書いておきたいから書くのだ」と思い直して大連のホテルの一室で机に向かっております。

中洲士郎の自宅の4畳半の書斎と言えば聞こえがいいが部屋の壁中は家族の溜めた本で埋め尽くされた本の捨て場所であります。それでも時々チェックしてみるとこの60年中洲が読んだのはその内の1割にも満たず、老い先考えると気が重くもなります。先日の夜中意を決して一冊を取り出すとそれが瀬戸内寂聴の「奇縁まんだら」でした。読み始めるとこれがまた面白い。そこには近代文学史を担った作家たちが素顔で息づいております。それに寂聴さんって本当に言葉選びが秀逸で表現にウイットがあって筋立ての随所に仕込まれた「落ち」が実に美味しいのです。

生きるってのは人との出会い。死ぬってのは好きだった人達との再会。そんなことを言って序文から読者を引き込んでおります。

出会いと言えば中洲士郎今回の5月15日からの大連出張の出鼻からショックの連続です。福岡空港でエアチャイナの出発間際、ラウンジで卑しくタダ酒一杯引っ掛けてトイレで用を足してそそくさ出てきたら若い男が中洲に向かってにっこりしています。多分知り合いなのだろう。彼に笑顔で応じながら急いで似顔の符号を開始しました。「何だ。俺の息子じゃないか!尾道から何でこんな所に」ドギマギして挨拶もそこそこに彼は同時刻発香港行きに中洲は大連に向かったのです。やっぱり老婆(ラオポ)言うように認知症が心配になります。

機中でアイパッドを開くと偶然にも息子が「読んだら?」とKINDLEに残しておいた「任天堂ノスタルジー横井軍平とその時代」が目に止まったのです。この本を読み通すうちに思いに浸らされました。確かに生きるってのは寂聴さんが仰るように全て人との奇縁ですが軍平さんを読むと同じく大きいのがモノとの出会いなのですね。ふとした縁でそのモノに出会わなければ違ってしまった筈の人生の面白さと怖さ。そんなお話でした。

人って誰もが「自分って何だろう。何故存在するのだろう。自分の存在意義って何だろう」って思いが川面の泡のように湧いては消えて行くようです。そんな時に偶然ある人の生き様を識って人は自分の存在理由に確信が持てるのじゃないかと思います。

今回中洲士郎もその一人になりました。横井軍平その人の商品開発人生に「やっぱりそうだ」って確信を深めたのです。そして本当に下らないかも知れませんが中洲士郎の滑稽な開発物語でもどなたかお一人の読者の共感が得られていればそれもブログの存在意義かも知れないと・・・。

老人の小便のように随分と長たらしい前置きになりましたが今回は「チェリービール」というきっと美味この上ない開発の話を仕込んでみます。ご期待ください。

(参考までに)

横井軍平さんのヒット商品をご紹介したいのですが転載が禁じられていますので。是非電子ブックでもダウンロードして読んで下さい。

横井軍平社会に出て最初に出したのがウルトラハンド、120万台以上の売り上げでした。蛇腹が伸び縮みして遠隔地のモノを掴みます。な~んだ中洲のBiRodも同じじゃないか。未だ1万台も売れてませんが価格が100倍だから案外いい勝負かも知れないのですよ。

中洲若子の話(その9)

1997年の暮れに実父辰野亥蔵の死を偶然知ったいきさつはお話ししました。そのあと亥蔵との何度かの邂逅を思い浮かべるうちに母親若子と亥蔵の出会いと別れを知りたくなったのです。

それで若子に尋ねました。「置屋の吉良に奉公に出てからどうしたと?」「いっぽうていで働いた。何か小説でも書くとね」若子がそれだけポツリと答えました。今思い返せば若子には一度も奉公先のことや仕えた旦那の事を尋ねた事が有りませんでした。ただ時折若子は書き綴った日記を読み返しては昔の想いに耽っております。誰かに打ち明けたかったのかも知れません。

長い間「いっぽうてい」と記したメモが残りました。2010年5月若子は両膝の手術後歩行が困難となって車椅子生活に、更には脳梗塞が進行して認知症がひどくなってきました。

天気が良ければホンダCRZで大濠公園に行き車椅子を押します。和白のサニーで弁当を選んでは湖畔で一緒に食事をすることもありました。若子はこのところいつも優しい顔をして殆ど喋りません。

大濠公園で車椅子の若子

一緒に弁当食べて

そんな若子を見ていると「もうそんなに永くはない。若子の人生を振り返らなくてはならない」と。しかしもはや若子の昔の記憶を手繰り寄せるのは難しい状態です。

それで若子の親弟妹達が映った昔の写真を拡大し繰り返し指先で追いながら記憶の回復を図りました。

だが「この僕誰かわかるやろう?」その問いに笑って「うん精一」「違うあんたの息子の士郎や」何度言っても彼女の頭には弟精一しかないのです。

今思えば精一に深い思いがあったのでしょう。精一がアル中で生活が破綻した時お金の面倒を見てやらなかったのを悔いているのでしょうか。士郎の辛い幼児期精一は本当に優しい叔父でした。いつか叔父精一の物語をして彼ら姉弟の魂を慰めようと思います。

若子の弟精一と中洲士郎

そんな訳で若子に昔のことを聞き出すには時既に遅かったのです。

仕方なく手始めにネットでメモの「いっぽうてい」を探してみました。

それは「一方亭」と綴り昔博多で栄えた料亭であることがやっと分かりました。終戦後米軍に撤収されて焼失したとの説明だけが絵葉書記念館に残されておりました。

その後も時折ネットを探っておりましたら「しょうき家一方亭」という変わった名前の居酒屋がヒットしたのです。

1年程経った2011年5月のこと中洲士郎は会社の若造の池山治行と新入女子社員を連れてやっとの事でこの店の暖簾をくぐりました。

  

 

中洲若子の話(その7)

「Bi見逃サーズ」未完成のまま幕張メッセでの見本市インタービー出展で東京に来ております。

今日は若子の命日11月14日です。2013年に死んでしまってもう5年も経ったのです。それで今日は少し若子のことを思い出して弔ってやることにします。

中洲若子は大正 15 年 4 月 10 日に北九州若松の貧乏寺の三男坊と豊前の私生児の間で第一子として生まれました。その若子には 3 人の弟と 5 人の妹から「大きいネーチャン」と呼ばれて彼らの飢えた黄色いくちばしに食を探し運ぶ苦労鳥の運命が待っていたのです。その役割を死ぬまで担い昭和の時代を駆け抜けて行きました。

 「若子には尋常小学校出してやったから、そろそろ奉公にでも出てくれればいいが。女学校なんかにゃやれやしない」深夜父母の会話が襖越しに聞こえました。

第2次世界大戦が始まった年だったのでしょう。軍靴の音が密かに漏れ響き職業軍人と言うよりも口減らし二等兵の祖父も演習に駆り出されておりました。

祖父の写真らしい

狭い部屋に寝乱れている4人の妹と弟達に目をやり若子は決意します。翌朝若子は両親に「奉公に出ます」と告げました。女学校進学など夢に過ぎなかったのです。

15歳になると直ぐに母に連れられて福岡市の東の歓楽街千代町の置屋「吉良」に奉公に上がりました。置屋は貧しい家の特に器量の良い娘を事実上買取り将来売れっ子芸妓になるように躾けもするが掃除洗濯炊事それに主人の背中洗いなど女中代わりに使います。

芸妓に出し売れっ子ともなれば大きな移籍料が手に入る大切な商品ですから現代のようなセクハラの類いは案外少なかったのかもしれません。

若子が奉公に出た頃の写真でしょう。

置屋では娘を養女として親元から譲り受けることも多く若子も吉良から要請されましたが若子の父親は断わりました。若子の母親は家計の遣り繰りが下手で夫婦に諍いが絶えなかったが料理の腕は確か、食事は質素でも美味でした。

しかし吉良の家でありついた残り飯は糸を引くことが多く若子はそれが耐えられず一度は家に泣いて帰りました。「何でもするから家に置いてくれ」と。勿論そんな願いが受け入れられる筈はありません。

若子と士郎が生涯美味いものにこだわり続けるのはこの吉良の食事の恨みからでしょうか。以上のような話を若子から時々聞かされておりました。

そしてあの若子の店「赤ひょうたん」を再開して弔い客から意外な話を聞くことになりました。

赤ひょうたんの数件先の小料理店で仲居さんをやってる年を召した着物姿の婦人の話です。

「若子さんは本当に綺麗で品のいい人でした。小さい時から苦労されてね。私も少しだけこのお店で働かせて貰いました。優しい女将さんでしたよ」

「あんな時代ですから、まあ相応の苦労はしたでしょうね」

「若子さんは若い時京都で舞妓さんやってたそうですね」

「そんなこと言ってましたか。舞妓じゃないが訳あって一時中洲の芸妓、そう馬賊芸者をやってた筈ですよ」

なるほど中洲若子、生家貧しくその容貌を買われて京都は先斗町の舞妓だったと詐称していた訳か。いや若しかしたらどうせ奉公に出されるならば噂に聞く京都の舞妓に憧れていたのかも知れません。それに短い間でも中洲で芸妓をやってたとなるとやはり世間には冷たいものがあって辛い思いをしたのでしょう。

だがおっ母んに芸妓やってもらわねば中州士郎この世に 3 年しか生き永らえておらんのです。

なにぶんにも若子と確かな話をしていないので誤っているかもしれませんが中洲士郎がかすかな記憶を辿ると話はこうなります。お聞きください。

軽快であること

「ウ~ン」チトまずい事になりました。中洲にナカされる社員達のブログが今日から公開に。中洲の読者は確実にこの若者ブログに流れてしまいますね。「ナント!?」出社した新入社員が先輩達に朝のコーヒーサービス。それも嬉しくてタマランってな顔でね。中洲だってあの軽快なブログにハマりそう。

負けられません中洲老公「ラオコン」。ここは新境地商品開発ブログに磨きをかけて勝負しましょう。


「BI見逃サーズ30M」を手に。ヒメノさんの首掛けをこんな具合に使いました。石巻の沖合でヒラタ船長操縦の船から30m底の海底をヒメノLEDで照らしてモニターに映し出します。360°カメラですから指でスクロールすれば遺品を見逃しません。

ゴダールのメッセージ

2日酔いの重い身体を引きずって朝東京支店に向かいました。光るビキニの製造を委託する先般の広東省の会社の楊総経理との面談、それと来春新卒採用面接です。

今年ルミカにエントリーする人は共通して中洲ブログの愛読者です。内容の乏しい拙い文章のメッセージに申し訳ないやら少し気恥ずかしい面接でした。

夜、支店名物のBBQ大会に参加した後門前仲町のスタンドバーQUIET WOMANを少し覗きました。店主の婆さん独りです。奥から大切そうに黄ばんだ文庫本を一冊手にして。「ゴダールよ」「ゴダールって誰?」「インドの詩人。若い時に愛読したの」「僕は堀口大学のフランス詩集だね、老婆(ラオポ)に捨てられたのを先日アマゾンで買い戻したら3500円もしたよ」「そう、堀口大学の訳は素敵ねえ」「それでゴダールの何処がいいの」婆さん、ワープロで転記した紙片を見せながら「ゴダールがこうやって100年後の読者へメッセージを送ってるの。そう私宛にね」紙片には「100年後の諸君。どうか私が今目にしているこの生命に溢れる素晴らしい景色を思い起こして欲しい・・」婆さんにとっては昔の彼氏のラブレターみたいなもんだろうか。

まあ作家や詩人は溢れる想いをメッセージに代えて恋文を送りつけているのでしょう。

偶然中洲ブログに辿り着いたあなたにいつか良いメッセージを届けたいものです。

老婆(ラオポ)居ぬ間の

昨晩東京から戻って福岡天神で食事会がありました。

中洲唯一の公職はHアカデミーの副理事長です。理事長は某明太子会社を経営するササキ会長。最近耳が遠くなられたが彼のスピーチは相変わらず絶品で中洲は何時も聞き惚れます。

本来は稀に見る人格者フジノ校長の送別会でしたが。

今回は急遽中洲受章お祝いも兼ねての食事会です。皆さんにマッキントッシュと言う聞いたこともない凄いブランドの高価なシャツをお祝いに頂きました。これ着て会社の女子社員とのデートを夢想すると嬉しくなります。何時も中洲の衣服を見立てる老婆(ラオポ)がきっと目を剥くだろうなと袋を握りしめてその後も「はしご」を続けました。

翌朝フラフラ気分で預けた車を取りに博多へ行ってその足で由布院に来たわけです。そしたら中洲同様に嫁さんのサッちゃんが旅行で留守のヤマサキ公認会計士が遊びに来たので彼の世話を焼く事に。お陰で島らっきょうの草抜きもままならず一緒に耳納連山の麓の「みのう山荘」で夕食をとりました。

共にカミさんが居ない侘しい者同士の食事だろうと山荘の小綺麗な女将には映ったことでしょう。

売れない新製品

義理の甥っ子に会社に来てもらった。大手警備保障会社に20年勤めていたので大閃光ペイントの評価をして貰う。

「警備保障と言うのは如何に財産を守るかが仕事で犯人を捕まえるのが仕事じゃない。発光スプレーを不審者に吹き付ける場面は殆どないだろう」

ポリカーボネートシールド(防護盾)だ。こいつに発光スプレーをセットしよう。サバイバルゲームで使わせるのだ。そしたらそれを見て機動隊が採用する。

いや。ヤッパリアミューズメントだ。ナガトシの光る文字シートだろう。明日倅の会社から研究者が2名来るので商品化頼もう。だけどうちの連中皆んな呑気だな。中洲以外に焦る気配が全くない。これじゃ脱サラ独立はできないよ。

新製品はとにかく難しい。世に無かった代物は使い方も発見発明しないといかん。それにしても「ケミホタル」は奇跡的な穴場商品だった。中洲の独立新製品がケミホタルじゃなかったと思うとソッとする。皆さん独立して最初に手掛ける製品は手離れが良いことが必須ですよ。ああ怖。


のどかな由布農園の花。鯛釣り草と翁草の群生。4/22撮影。

光る救命パンツに

定時取締役会でした。

朝起きてから今日の開発案件は光る水着、それも艶なビキニです。大体構想は固まりましたが化学発光は反応で炭酸ガスが沢山発生します。

だから下手するとビキニが膨らんで異様な格好になるかも知れません。まさか光る救命パンツじゃナイトプールで色気が出ませんね。そこで今朝早くネットでガスが抜けて柔らかく皮膚にも安全な素材を探してアマゾンで発注しました。

光る優雅な水着の開発一緒に始めましょう。