中洲若子の話(その13)

作家でもない中洲が人様の事を珍奇な妄想を加えて描こうと言うのですから危険です。

しかも相手は近代日本を作り上げ世界の歴史に名を残す2人の英傑伊藤博文と高橋是清ですからオオゴトです。この機会に記録や評伝を読むと改めて幕末から明治の時代の人々の未知への挑戦それも「国の為人の為」という湧き上がる使命感を強く感じます。その男の世界に料亭と花柳界の女の世界が色濃く絵模様を描いているのでとても情熱的、人間的ですね。

この2人の男、何時も命を狙われる公的活動から夜遊びの世界に入ると女性に大モテの可愛い男たちに変身します。

慶応2年1966年未だ駆け出しの25歳の青年伊藤俊輔、惚れて身請けした芸妓小春と一緒になるためカミさんと離婚、その騒動の中でも昼間辛うじて生きながらえた命を確信するかのような夜の遊びです。あの時代は避妊が上手くいかないので直ぐに子供が出来ます。翌年別の女性との間で「山口げん」をもうけました。(と中洲は想像します)

15歳になったピカイチの美貌の娘、今更入籍出来ず未亡人の藤野みちと図って「春帆楼」をこさえてそこの仲居とします。営業部長の博文総理は政界経済界の大物をどんどん連れ込んで明治16年には「春帆楼」に世界初の公認河豚料理の看板を上げさせるわけです。凄い政治力ですが尋常な熱の入れ方じゃありません。

そして仲居頭で天下の才媛「山口げん」の名声は高まるばかりの明治26年52歳の宰相博文一計を案じました。おのれの醜聞を腹心の39歳、是清大蔵大臣の女としてカモフラージュしたのです。政界一の好男子の是清は翌明治27年に生まれた娘の「ふさ」と山口げんを熱愛しました。

時は流れて明治40年博文66歳是清53歳げん40歳です。男女親子の愛情は兎も角2人の娘、愛人、娘の行く末を案じる博文と是清は奇想天外の手を編み出したのです。博多で老舗の料亭「一方亭」は妻に先立たれた商い下手の黒川清三郎の下で倒産寸前でした。ここに「げん」を清三郎の後妻として送り込み先々清三郎の長男清太郎と「ふさ」を夫婦にして「一方亭」2代目を継がせるのです。見事な親子丼です。これで戸籍上もスッキリし子孫繁栄の筋道が出来ました。

今度は2人の営業部長、政界だけでなく筑豊の炭鉱主や任侠の吉田磯吉大親分、八幡製鉄とその取引先を贔屓にさせて倒産寸前の「一方亭」を見るまに九州随一の料亭に変貌させたのです。2人は共に驚異的な働き蜂の生涯を送り、そして同じく悲しい結末を迎えました。

尽力したのはそれだけではありません。産業構造の近代化です。是清はネポチズムに浸りきった財閥にもメスを入れて殖産興業を図りました。大正12年東大法学部を卒業したばかりの23歳父辰野亥蔵を筆頭に30名の俊英を腐りかけた安田財閥の再生部隊に引き込むのです。

中洲若子の話(その12)

真似ごとに文を書き始めるとつくづく作家の凄さが判ります。特に司馬遼太郎なんか「どうしてあんなに見たことも聞いたこともない歴史上の場面を登場人物に語らせる事が出来るのだろう」と。皆様も中洲同様そう感じますよね。

これって中洲の商品開発と同じく妄想の産物でしょうか。とすると我々読者は時に司馬遼太郎のイカサマに嵌められているかも知れません。

だったら中洲も一昨日の春帆楼の記事を分解して更にWEB記事を元にexcel表の縦列の見出しに西暦、元号、そして人物ごとに年齢と事件を書き込み横軸をカーソルに照らして妄想しました。

すると・・・。伊藤博文と春帆楼更には一方亭との関係が奇妙に浮き上がります。高橋是清も伊藤親分に振り回されているようです。

事件の芯にあるのは「山口げん」です。春帆楼が開店した明治15年に15歳のげんが奉公に入ったようでその後才色兼備の仲居頭として春帆楼の看板になり25歳(?)の頃是清に身請けされ娘「ふさ」を授かります。更にその「山口ふさ」は博文の手引きで「一方亭」の後妻に嫁がされることに。

俊輔の時代茶店の 娘「小梅」に命を救われ後々その恩を忘れず置屋に売られ芸妓になった小梅を身請けして芸妓上がりの女性をファーストレディにしました。その 梅子も良妻賢母の鏡であったと習っております。そもそも「芸妓上がり」と形容するのは後の人間の偏見でしょう。博文の時代、芸妓は(よく躾けされ文学や諸芸能を身につけしかも夜の生活も極めて巧みな)女性陣だったのです。だが梅子の理解をいいことに方々で芸妓と浮気しては子供をもうけ男らしく入籍を繰り返しました。博文さんは置屋に売られた悲惨な境遇の女性に特別優しかったのかも知れません。だから「山口げん」は伊藤博文の唯一の隠し子じゃないかと珍奇な妄想をしてみたのです。
裏付けにWEBから伊藤博文の年譜を拾いました。

慶応二年 1866

  1月     伊藤俊輔 下関に入る
  2月21日 伊藤俊輔 木戸貫治に鹿児島行きについて手紙を書く
  2月27日 長州藩 高杉晋作、伊藤俊輔を親書伝達の使者として鹿児島に派遣することを下命する
  3月     伊藤俊輔 妻すみ子と離婚
  3月21日 グラバー 横浜より下関入港、高杉晋作、伊藤俊輔その船に便乗長崎に向う
  4月 8日 伊藤俊輔 下関に入る
  4月14日 伊藤俊輔 梅子と婚姻
  4月22日 長州藩 高杉晋作、伊藤俊輔に洋行の許可を出す
  6月 4日 パークス 英艦三隻と鹿児島に向う途中、下関に寄港し高杉晋作、伊藤俊輔と会見
  7月 3日 伊藤俊輔 下関より長崎に入りグラバーより汽船2隻購入の契約を結ぶ 五代才助にも交渉し薩摩名義で
    ?    伊藤俊輔 大村藩士、渡辺昇と大村へ行く
  7月20日 伊藤俊輔 大村藩士、渡辺昇と下関に入り高杉晋作に紹介
  7月28日 伊藤俊輔にグラバーより契約の汽船二隻が幕府の強制買入れになったと連絡が入る
    ?    伊藤俊輔 村田新八と長崎に行く
    ?    伊藤俊輔 村田新八と上海に行き汽船二隻購入の契約を結ぶ
  8月26日 伊藤俊輔 下関に帰り汽船購入を藩に報告
    ?    伊藤俊輔 病気で寝込む

明治まであと2年の慶応2年幕末の志士達が走り回っているのが伊藤俊輔(博文)の年譜に見て取れます。この年妻すみ子と離婚して身請けした小春と結婚。しかしこの年の後半俊輔(博文)はどこで何をしていたのか。小うるさい前妻と別れて小梅と結婚ししかも下関で別の女性と同棲中?翌1867年に「山口げん」が出生しております。未亡人の藤野みちと共に春帆楼を興したと来歴にあります。兎に角博文は女性に優しい男です。認知してやれなかった15歳の「山口げん」が不憫で将来を案じて春帆楼をこさえたのでは。「げん」は博文の愛情に包まれかのソフィア・ローレンでも三尺を避ける程の美人に育ちそれだけでなく素晴らしい経営の才を発揮して春帆楼を日本一の料亭に育てます。

昔の男達は自分の子孫の幸せにもしっかりと心配りをしたのでしょうか。それで一番信頼し最優秀の人物の高橋是清に山口げんの身請けを頼んだのです。高橋是清は「げん」との間に愛娘ふさを得ましたが日本国の存亡を背負っていた是清は矢張り「げんの認知」に踏み切れませんでした。しかし先輩博文がやったように「ふさ」を素晴らしい娘に育てその末裔の幸を願って当時沈みかけていた博多の大料亭「一方亭」に送り込んだのです。

山口ふさが是清の隠し子であるのは公知だが山口げんが博文の隠し子であった記述は未だ見つかっておりません。

もしもそうだったら我らの高橋ノリチカ氏は是清のみならず博文の血までも受け継いで麻生太郎や安倍晋三どころでない高貴なお方と相成りますね。

「珍奇な妄想と商品開発」の話で中洲士郎のブログに立ち寄られた読者に中洲母子の身の上話など退屈極まりないことです。しかし伊藤博文と高橋是清が起こした事件と同じことを父辰野亥蔵が起こすのです。

秋の夜長WEBをブラウジングして父辰野亥蔵(仮名)を追ってみます。出来れば後3回程で「中洲若子の話」を終えます。どうぞお付き合いのほどよろしくお願いします。